カトリック映画の独特さ
青木:そうですね。でも唯一の例外はメル・ギブソンの「パッション」です。あれは①「キリスト教追体験型」だけど、聖書物語のリアリティーを徹底したが故に、“キリストの愛や正しさ”以前に、聖書の時代のリアリズムにみんな圧倒されたんでしょうね。イエスがぼろぼろになって血だらけで、鞭(むち)の先にはとげがあって皮膚が裂ける。そういう描写を真面目に全部やってますから。映画自体の力に感動してしまうのだと思います。それは意味があると思います。でも、監督であるメル・ギブソン本人の行状自体は例外ですけどね。
記者:え?そうなんですか?
青木:彼はカトリックですけど、反ユダヤ主義者として、発言に問題があることで批判を受けている人ですから。
記者:カトリックの監督や、それを描いた映画は、また独特の描かれ方を感じるときがありますよね。
青木:フランシス・フォード・コッポラの「ゴッドファーザー」が典型的ですよね。息子に洗礼が与えられているミサの裏で、暗殺や人殺しの指令を出しているシーンが描かれている。それで父の地位を継ぎ、暗黒街のボスとしてのし上がっていく。
同じくカトリックのロバート・ロドリゲス監督の映画では、ギターの中に銃を仕込んでいる殺し屋が、教会に行って祈るんです。そして、祈った後に人を殺しに行くというようなシーンが描かれる。
カトリックには「徳」というのがあります。聖人の徳があれば、どんなことをしても煉獄で苦しむことなく天国に行ける。その象徴が、免罪符なわけです。つまり「行為」なんですね。そういう部分が映画でも表れているということもできるかもしれない。それに対してルターは、信仰の「内面」の部分を問うたわけですね。だから宗教改革が起きたわけだし。メル・ギブソンの場合も、その人がどんな人かということではなく、どんな作品を作ったか、何をしたかとして評価されるということなんでしょうね。
「愛のむきだし」が怖かったわけ
記者:非キリスト教国の日本映画での、キリスト教の描かれ方の特徴で感じることはありますか?
青木:一番印象的だったのは、園子温監督の「愛のむきだし」ですね。あれは、キリスト教をキッチュに描いてるけど、僕はかつての自分たちの姿を見せられたような気がしてぞっとしました。圧巻なのは、満島ひかりがパウロの一説を滔々(とうとう)と叫びながら主人公に迫っていくところです。あそこは「すごく熱心で聖書を覚えてその通り正しいことをやっている」と本人は思い込んでるけど、やっていることと言っていることのギャップがある。それを観客に感じさせたかったんだな、と思いました。
日本でキリスト教的なものをアイロニカルではあるけどきちんと描いているという点で、ペンテコステ派の私からすると、そこが本当に怖くなりました。似たようなところを通ってきた歴史がありますから。
それをもっとも厳しく切り取っているのが、韓国の「シークレット・サンシャイン」ですね。あれは衝撃でしたし、普通の日本人にもとてもよく分かる感覚なんです。テーマは「本当に相手を赦(ゆる)すとはどういうことか?」「神の正義とは万人において正義なのか?」という疑問に陥ってしまった人間の悲劇がテーマとして描かれています。そして、その時人はどう癒えていくかということまで描かれている。でもその「癒やし」はハッピーエンドな甘いものではない。苦しみ続けていくかもしれないけれど、“シークレット・サンシャイン(隠れた秘密の輝き)”を浴びながら生き続けるのだろうな、ということがちゃんと描かれている。
それは韓国のキリスト教人口が3割いるから、そういう映画をつくっても受け止められるということだと思います。
記者:キム・ギドクの「嘆きのピエタ」もそうですよね。キリスト教をモチーフにして、なんであそこまでしシンドく描くのかなとは感じましたけども、あれはわが子の死を嘆き悲しむマリアを主題にした伝統的な「ピエタ」の典型的な「新解釈映画」ともいえますよね。でも日本では、キリスト教がマイナーだからその含意が理解されない。
私は「麻雀放浪記」で有名な作家の色川武大が大好きなんです。彼が『私の旧約聖書』というエッセイの中で、“日本で文学を書くとはひたすら一人で「壁当て」をすることだ”と書いているんです。西欧やキリスト教国は、文学や芸術でも常に根底にキリスト教の神がいるから、それに対して対決したり問うたり、“キャッチボール”をすることなんだけど、日本ではそういう対象が初めからいない。だから文学は「いかに誠実にまじめに壁当てをするか」ということだと書いている。それはそれでキリスト教が根付いてない日本で創作行為をすることのしんどさなのかなと思います。
青木:そうですね。だから洋画が単に「映画の超大作」として評価されるか、あるいは「あの解釈はおかしい」と反論することになる。例えば「ダヴィンチコードに反論する」という本がたくさん出たんですよね。でもそれって一番むなしい気がするんです。「誤りを正す!」と言って真剣にやってるんですけど、それは西洋社会からしたら「新解釈の」いわば「お遊び」なわけです。それを生真面目に向き合うだけというのは、むなしいなと感じます。むしろ「もっと一緒に余裕をもって遊べる、楽しめるほうがいいな」と思います。
「最後の誘惑」も、カトリックやプロテスタント教会で「禁止令」が出ました。私も教会の一室に集められて牧師先生から「今やってるあの映画は間違っているから見に行ってはいけない。あれが日本で公開されるのはサタンの誘惑である」と言われました。だから僕は次の日、見に行きました(笑)。牧師先生がここまで言うならよっぽどのものに違いないと気になって。
クリスチャンホームと世俗文化
記者:逆に気になっちゃいますよね(笑)。私は成人してクリスチャンになったのでよく分からないんですが、クリスチャンホームでは子どもの頃映画を見に行くのを禁止されるみたいな空気はあったんですか?
青木:あります、あります。うちは違いますけど、妻の家はテレビがなかったそうです。そういう世俗的なものはよくないと言われて育ちました。でもそれは多くの場合、子どもたちに歪んだ世界観を与えてしまうんですよね。
日本みたいに教会を一歩出たらすごい世俗的な社会では、逆に子どもたちに歪みを与えてしまいます。私もそういうところを感じて生きてきましたから。
記者:実際にそれでシンドイ経験をされたことがあるんですか?
青木:僕の家や教会はそこまで厳しくなかったですけど、禁酒禁煙ですから大学時代もコンパはいけないとか、性的なことへの抑圧もとても強かったです。音楽もロックはだめ、ビートルズは厳禁。ビートルズの曲をレコードで逆回転で聞くと「プレイザサタン」と聞こえるとか、都市伝説ですけど(笑)。教会堂で男性女性別々もありますし。だから「愛のむきだし」を見ると、非常に似通って見えるんですよね。
記者:とすると、青木先生が今これだけ映画を見ているのは少年期への反動みたいなところも?
青木:それもありますね。意識的にその壁をなくしたいというのもあります。単に憂さ晴らししているのではなく、牧師として「伝道」に向けていくとき、映画や音楽は若い世代への共通言語になると思うんです。私は牧師になる前に小学校の教員だったから「クレヨンしんちゃん」見ましたよ。見ないと話についていけなかったから。
でも単に手段としてだけ見てると子どもにばれる。本当に自分も大好きとなると、子どもと通じ合える。それが非常に大事なので、映画を見たりそういうのでつながれるということは大きいですね。
2016年のキリスト教映画を振り返る
記者:とりあえず、今年のキリスト教的映画から10本上げて、少し語っていきましょうか。
記者ベスト10
1. 淵に立つ
2. スポットライト
3. ヤクザと憲法
4. 孤独のススメ
5. サウルの息子
6. バベットの晩餐会
7. 最高の花婿
8. ミスター・ダイナマイト
9. シーモアさんの大人の人生入門
10. 神様メール青木の10本
シビルウォー
ローグワン
天国からの奇跡
ズートピア
サウルの息子
葛城事件
声のかたち
永い言い訳
君の名は。
シン・ゴジラ
青木:「サウルの息子」は、主人公がユダヤ人で名前がサウルなんですが、クリスチャンの信仰の問題としても受け止めたんですよね。サウルはとても主観的な人間であり、カメラもそのように計算して撮影されている。そして、強制収容所の中で息子の埋葬のために命を懸ける。「そのために生きる」というものがあると、どんな状況でも人間はすごいパワーが出る。ラスト、にっこり笑うじゃないですか。
記者:あそこが印象的でしたね。
青木:その瞬間「生きてよかった」と思う。希望を持って生きる、という点に信仰的な生き方を感じました。
でもそれは主観的なものです。あの遺体が息子かすらも検証しようがない。ペンテコステは「癒やし」を強調することで、一気に拡大してきた。苦しみに100パーセントの特効薬はない。でも「癒やされた」と信じて祈ると癒やされる。でもそれは決して客観的に検証しようがない。それが信仰である。そんな共通点を感じましたね。
記者:あの映画は、私もとても心に残ってます。主人公もプロの俳優ではなく、ユダヤ教のラビなんだそうですね。
青木:「天国からの奇跡」は、一般の方が見てもおすすめベストな②タイプ(未信者伝道型)の映画ですね。実際の出来事をもとにしています。いかにもなタイトルなので、最初は批判的な先入観があったんです。でも最後の最後でそれをくつがえしてくれるシーンがあるんですよ。重い病気を抱えている子どもを持ったクリスチャンの家族の物語なんです。ラストで教会の人たちは「神様はどんな素晴らしいことをしてくれたか」を聞きたがる。でも娘のお母さんは期待されたこととは全く違うことを語る。「奇跡」というものがリアリティーとして見た人に伝わる。それが何かはぜひ実際に見ていただきたいんですが、素晴らしいと思いました。
記者:見たくなりました(笑)。②の典型的な「キリスト教の自画自賛映画」から少し半身ずらしてきてるみたいな映画なんですね。私の個人的なおすすめは『孤独のススメ』です。主人公はオランダのまじめなプロテスタントの初老の男性で、その家にちょっと変わった中年男性が転がり込んできて、主人公はそれをすごく親切に面倒を見て一緒に暮らすんですが、逆にそれ故に教会の中で孤立していってしまう。コメディーなのにBGMもずっとマタイ受難曲なんです(笑)。キリスト教の同性愛批判へのかなり気合を入れた批判も込められています。とってもおすすめですね。
青木:「葛城事件」も印象に残ってます。自分の息子が通り魔殺人を犯して、それで家族が崩壊していくという物語。ある大事なものがないと家族は崩壊してしまう。そのある大事なものというのは、「明日も今日と同じ日がやって来る」という幻想と希望なのだと思います。そして人間がいかに罪深いものなのか。失敗や過ちから自暴自棄になりかねないということに気付かないと、罪の中で生きざるを得ないというのが描かれているんです。
記者:そのようなテーマでは、私は「淵に立つ」が衝撃でした。これは話し出すと長くなるんでレビューを読んでいただきたいんですけど(笑)。そこで思ったのは、日本映画で「倫理」や「家族」「正義」を描くとき、よくキリスト教的モチーフが使われる気がするんです。「愛のむきだし」もそうですけど。日本映画の中での教会やキリスト教の描かれ方が興味深いんですよね。小津安二郎でも成瀬己喜男でも、映画の中でちょっとニコライ堂が描かれて、それは“モダン”のシンボルだったわけなんですけど、あまり描かれ方としては変わってないのかなぁとも思います。
青木:日本映画を見て解釈する上で、キリスト教的な視点で見ると共通するものが描かれているという意味で有効かなと思うんですよね。物語の無意識的な展開や結論の中に、知らず知らずのうちにキリスト教につながるものが含まれているんじゃないかなぁと思うことは多いですね。「シン・ゴジラ」も「君の名は。」も「ちはやふる」も「永い言い訳」も「この世界の片隅に」も、そんな気持ちからレビューを書きました。(続きはこちら>>)