まず初めにお断りしておく。あなたが日々それなりに悩みを抱えていながらも平穏なクリスチャンなら、この映画を決して見に行くべきではない。あるいはホラーが苦手な人も。本作は近年まれに見るほど“怖い”映画である。
私は上映中、恐怖のあまりいい年こいて泣きべそをかき、怖さのあまり鼻水が止まらなくて困った。そして数日は夜になると悪夢のような不安感が抜けなかった。いずれもここまで体に“残る”怖い映画は初めての経験である・・・。
同時にこれほど知的に誠実に覚悟を持って、家族、赦(ゆる)し、倫理について問うた映画もまた日本映画で見たことがない。その意味で、本作は二重の「衝撃作」である。
この映画は一言で言うならば、現代日本版「テオレマ」だと言える。そのもっとも正しい意味において。
粉々に砕け、引き裂かれる家族
物語はごく平穏でありふれた設定だ。主人公となるのは一人娘と夫婦の3人で暮らす一家だ。妻と娘は食事の前にはいつも「天におられる私たちの神様」と主の祈りをささげてから箸を取る真面目でどこにでもいる平均的なキリスト教徒だ。一方父は、信徒ではないので、祈らずにすぐに味噌汁をすすり、ご飯をかき込み始める。(仲のいい母子と夫の間にあるそこはかとない“ずれ”が後々大きなポイントとなるのだが)
そんな平凡な家庭に1人の男八坂(浅野忠信)が転がり込んでくる。夫は古い知り合いで、事情がありしばらく住み込みで働いてもらうことにしたという。妻は戸惑うが、音楽発表会を前にした娘は、オルガンで賛美歌を教えてくれる八坂になつき、いつしか一家に打ち解けていく。
しかし、そこから家族は崩壊していく。取り戻しようがないほど粉々に滅茶苦茶に・・・。
平穏な家庭に現れる男、怪物(モンスター)八坂を、浅野忠信がこれ以上ないほど見事に怪演している。
クリスチャンはあまりに安易に“赦し”を考えていないだろうか?
この映画が、怖いと同時に本当にリアルだなあとうならされたのは、クリスチャンの妻章江(筒井真理子)の姿にある。八坂は章江に、自分が昔人を殺めて刑務所にいたことを語り、被害者の親に謝罪の手紙を書く。その姿が、章江が八坂に心を開くきっかけとなる。
キリスト教は“赦しなさい”と語り、私たちは“赦す”という言葉をあまりにしばしば耳にしている。その図式通りの一見美しい懺悔(ざんげ)と赦しのシーンだ。しかし、この作品はそこにまっすぐな問いを投げ掛けていると受け止めることもできる。
“赦す”のは誰なのか? 人間が“赦しを与える”ことなど可能なのか? 自分が“赦し”を与える立場に立ち、罪を犯した相手が“赦される”対象であるという無自覚な優越感、傲慢(ごうまん)さ、思い上がりがあるのではないだろうか? そもそも“赦す”ことなど、人間に果たしてできるのだろうか?
これは、実は現代思想、哲学の大きな問いでもある。フランスの哲学者ジャックデリダが『赦すこと 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』の中で、赦すことの不可能性を徹底的に論じたように。
罪を犯した八坂の姿を見て心優しく同情する章江の姿には、あまりに安易に“赦し”を語り“赦し”を与えようとするクリスチャン独特の傲慢さと無自覚さと甘さが見事にリアルに現れている。そして、章江はその“罰”を受けたともいえる。
妻を演じた筒井真理子は、役作りに当たり、クリスチャンの知人にも会いに行ったと語っている。
「私が会った敬虔なクリスチャンの方たちは、何かを信じることができる強さを持っていて、全ての人を愛すべきとか、どんな罪人も救われるべきとか、いろんな『~べき』がある人が多かったように思います。(中略)それをなくした章江は、どんな風に変わるんだろうと考えました」
なぜ罰を受けたのか。それは「赦す」ことがあまりに安易に考えられていること、それは命懸けのリスクを負ってなさなければならないということが、見落とされているからではないだろうか?(続きはこちら>>)