「歓待(他者を受け入れること)」から考えてみる
深田晃司監督は、2010年に前作「歓待」という映画を公開しており、本作「淵に立つ」と「歓待」はコインの裏表の関係にあると語っている。この言葉から、彼が確信犯として本作を作ったことが分かる。
“歓待”もまた、現代フランス思想の1つの重要なテーマである。フランスの哲学者ルネ・シェレール(ちなみにあのエリック・ロメール監督の弟でもある)は、それについてまるまる1冊『歓待のユートピア 歓待神礼賛』という著作を書き、ギリシャ哲学とキリスト教から“歓待”について論じ尽くした。
その中でたびたび引用されるのが、イタリアの監督ピエロ・パゾリーニの「テオレマ」だ。イタリアの裕福なブルジョア一家に若い美男が転がり込んでくる。その結果、一家は崩壊し、ばらばらになるという物語だ。
一見理不尽な物語。しかし、シェレールは書く、「けだしそれこそは、客を迎える主への神秘的な報いなのだ」と。そこには客(来訪者)にこそ神(イエス・キリスト)が象徴されているという確信がある。
聖書の中にも、客(異邦人)を歓待し、歓迎する物語が書かれ、そのようにせよと語られる(最も有名なのが、例えば善きサマリア人の物語だろう)。
シェレールは繰り返し語る。歓待は、礼儀やマナーの問題と思われがちだが、そうではない。それは「命令」「掟(おきて)」「義務」として語られているのだ、と。異邦人、他者である客を受け入れ、歓待することで、受け入れた側は大きな被害、時には命の危機にひんし、破滅すらするかもしれない。それでも、客(=異邦人、他者)を受け入れなければならない、という義務なのだと。そうしてこそ得られるものがあるのだ、と。
なぜ、そこまでしなければならないか。シェレールは言う。
「この迎えられる者の姿の中に、そしてその姿によって、放浪者、亡命者としての自分自身の姿を認めるからなのである」
そして「テオレマ」を引用しながら語る。
「家庭の中では、あまりにも近くにいるために、隣人そのものが近づき得ぬものとなっている。己を識(し)り、互いを識るためには、各人がみずからの根源に立ち返って迂回(うかい)し、自然的な発生とは異なった意味での自らの出生地を再発見しなければならない」
“歓待”とは、命懸けの行為である。そして信仰の本質でもある。悔い改め「メタノイア」とは、「視点を変え、思い直す。全く別の方向に向かう」という原義である。
神が到来したとき、それを真に受け入れたならば、これまでとは全く違った視点に立ち、全く違った生が始まる。しかしそこには、普通の視点からした「幸せ」「平穏」とは全く違ったものかもしれないという、パゾリーニのキリスト観が込められているといえるかもしれない。
しかし、よく考えるとイエス・キリスト自身がそう語っているのだ。
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
(マタイ10:34~39)
あるいはこれを信仰と離れ、他者理解として考えることも可能だろう。他者を受け入れ理解するということは、言葉の美しさと裏腹に、それほどの命懸けのリスクを負った行為なのかもしれない。
この映画において、そのことを本能的に理解し受け入れているのは、実はクリスチャンではない夫ただ1人である。彼は真に赦(ゆる)しを乞うている。だからこそ、全てを差し出して八坂に赦しを与えようとしている。
後半、家族が粉々に砕け散った後、彼が妻に向かって「やっと俺たち夫婦になれたな」と言う一言は、実はそういう意味なのではないだろうか。
キリスト教国でもない日本で、よくぞこんな映画が作られたなと思う。監督の深田晃司は、この映画を作った理由について、「私にとって、家族とは不条理です」としてこんなことを語っている。
巷にあふれる、家族の絆を理想化して描くドラマに、私はもううんざりしています。それは、旧式で類型化されたありもしない「あるべき家族像」をフィクションがなぞり流布することで、本来現実にあるはずの多種多様な「家族のカタチ」を排他的に塗りつぶしていくからです。
家族の枠組みを疑い、揺さぶりをかけ、原初的な人の孤独を露わにした上で、それでもふるいの底に残るような一握の絆、幻の絆をスクリーンに現前せしめるような映画に、「淵に立つ」はなるはずです。そこで差し出されるであろう21世紀の「家族の肖像」は、かつて私たちを庇護(ひご)し、抑圧してきた家族制度が幻想に過ぎなかったことが刻々と露見しつつあるこれからの時代に、最も共感を呼び得るモチーフの1つになるはずだ、と私は信じています。
深田の言葉の節々から、やはり覚悟をもって確信犯としてこの映画を作ったことが感じられる。
キリスト教会の性加害事件のモチーフとしても?
最後に蛇足となるが、本作を見ていてどうしても思い出してしまうことについて1つだけ触れたい。今年カトリックの聖職者による性虐待事件をテーマにした「スポットライト」という作品が話題を集めた。個人的な取材の中で、残念ながら日本でも同種の事件が相次いでいることを知った。そして驚くほど、「スポットライト」で描かれた事件と似ていることも知った。
女性や幼児に性加害を行う神父・牧師の行動は、驚くほど似ている。普段は極めて誠実に見える、魅力的な人物である。しかし相手の弱みを嗅ぎ出すことに巧みであり、圧倒的なカリスマで周囲を支配する。そして同じ事件を繰り返し続ける。
事件が公になると、教会や信徒の前で、涙ながらに土下座して赦しを乞う。彼らはその姿に感動し「赦す」。しかし当人は、同じ事件を再び別の場所で繰り返し続ける。傷つけられた被害者の人生は引き裂かれ、時には命を絶つ方もいる。しかし加害者は決して悔い改めず、裁かれることもない。
この映画において、加害者の八坂(浅野忠信)はまるで怪物(モンスター)だ。その姿、行動は、複数の事件の取材をしていて聞いた話の数々に、怖いぐらい重なるところが多かった。
その意味で、取材者として本作は、本当にリアルであり、それが恐ろしくてたまらなかった最大の理由でもある・・・。
というわけで、本作はいろんな意味で心底怖く、「衝撃作」である。そしてキリスト教について考えるテーマが詰まりまくっている。できれば多くの人に見て・・・、と言いたいがやっぱりお勧めしかねる。だってやっぱりめちゃめちゃ怖いんだもん・・・・。自己責任でご覧ください・・・。
■ 映画「淵に立つ」予告編