昨年の第68回カンヌ国際映画祭グランプリ、ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞を受賞した作品。ナチス・ドイツによるホロコーストをテーマにした映画は数多い。「シンドラーのリスト」「ライフ・イズ・ビューティフル」「戦場のピアニスト」などをすぐに思い出す。しかし、この映画が珍しいのは、主人公が強制収容所で働くゾンダーコマンドの一人であることだ。ゾンダーコマンドとは、ドイツ語で特別(Sonder)の部隊(Kommando)を意味し、収容所内の死体の処理などの雑用をこなす雑役夫だ。「カポ(監視役の意)」とも呼ばれた。クロード・ランズマンが収容所の生存者たちにインタビューしたドキュメンタリー「SHOAH(ショア)」に、カポだった人物のインタビューが収録されていたが、真正面から扱った作品はあまりないのではないだろうか。
強制収容所を生き抜いた精神科医ヴィクトール・フランクルの著書『夜と霧』や、エリ・ヴィーゼル『夜』などにも、カポたちのことは、さまざまな形で記されている。中には、ドイツ兵以上に残忍に収容者を痛めつけた者もいたという。映画ではしばしば、硬い木のこん棒を持ち、収容者たちを痛めつける姿で描かれることもある。
■ 映画「サウルの息子」予告編
監督のネメシュ・ラースローは1977年生まれのハンガリー人、親族にはアウシュビッツで亡くなった者もおり、ホロコーストは家族の歴史と結びついたものだったという。彼は、この映画を作ったきっかけをこのように書いている。
「収容所を描いた映画にいつも失望していたからです。それらの映画はサバイバルやヒーローのストーリーを作ろうとしているのですが、それは過去を神話的概念で再構築することだと私は思うのです。ゾンダーコマンドの記録は逆に、具体的で現実的で確実です。彼らは、死の工場の"正常な"働きについて、その組織、ルール、作業のリズム、シフト、危険、最大の生産力について、詳細に記述しています」
いわば、彼らは収容所の中で行われていたことを、同じユダヤ人であるがゆえに、ドイツ兵よりも詳細に見ていた人間たちなのだ。カポたちは、ガス室にこびりついた血や脂を洗い流し、死体を片付け、死体を燃やした後の大量の灰をシャベルで川に捨てるなどの肉体労働を課せられた。食事や住居などは、収容者よりは恵まれた立場とはいえ、数カ月もたてば、彼らもまたガス室に送られて殺されることになる。
彼らの薄汚れた古いコートの背中には、赤いインキで大きく×(バツ)が書かれている。カポであることのしるしだ。(そして逃亡したときに見張りの兵が狙い撃ちしやすいためにという理由もあるのだという)。それはまるで、背中に背負わされた十字架のようにも見える。
物語の中、ほとんどのシーン、カメラは主人公の肩越しのクローズアップで進んでいく。収容所内の凄惨な状況は主人公の肩越しにスクリーンに写しこまれるが、ほとんどはピンが当てられずぼんやりとしか見えずよく分からない。映像にするにはあまりに悲惨な光景だからということもあるだろうが、むしろカポとして強制収容所の中の非人間的な世界に心を動かされることもなくなってしまい、生きるためにただ決められた仕事をこなしているカポたちの非人間的になってしまった心境をよく表しているようにも見える。
そしてこの映画は「音」の映画でもある。収容所に連れてこられたユダヤ人たちの嘆き、絶望の叫び、すすり泣き、ガス室に追い込まれ、鉄の扉が無慈悲に閉まる音、絶叫、扉を叩く音。ドイツ兵の「ARBEITEN!(働け)」という命令、コンクリートにこびりついた血をたわしでこすり洗い流す音、黙々と作業をする中のため息やささやき声、死体を燃やした灰をシャベルで川に投げ込む乾いた音、そして夜、部屋の中でかすかに聞こえるイディッシュ語のユダヤ教の祈り・・・。
ショッキングな映像や効果音を使わず、あえてリアルな無数の「音」によって、収容所で働くカポたちの心境に、見ている私たちもまた誘い込まれていくようだ。
そのような絶望的な生活の中、カポとて働くサウルはある日、運び込まれてきた自分の息子の死体を目にする。そして危険を犯し、その死体を解剖室から持ち出し、なんとかして葬儀をしてもらおうと命の危険を冒しながらユダヤ教のラビ(ユダヤ教の聖職者)を捜す。作品を見ているとき、なぜ主人公サウルが、仲間たちや自分の命の危険すら犯しながら、息子の埋葬のためにそこまで必死にラビを捜し求めるのか、いまいち分からなかったが、それには理由がある。
パンフレットの解説によると、ユダヤ教では死後、救世主メシアが死者を復活させるために死体をそのままの状態に保つ必要があり、火葬は禁忌であり、だから主人公は土葬に執着しているのだという。つまりこれは、非人間的な強制収容所の中で、最後にせめて人間的な「喪」をなそうとする人間の映画なのだ。
息子の埋葬のために命をかける主人公のサウルは、ほとんど表情をあらわにすることはない。物語の終わり近く、ただ一回だけ、人間的な表情を見せる。それは本当に印象的な表情だ。どこか役者らしからぬ不思議な存在感を放つ主人公サウルを演じたルーリグ・ゲーザもハンガリーのユダヤ人、プロの俳優ではない。イスラエルで生活した後に、ニューヨーク・ユダヤ教神学院のタルムード学院で2年間学び、現在は詩人、作家の傍ら同学院で教鞭を取っている人物という。
キリスト教と聖書という点からは、「サウル」と聞けば思い出すのは、サムエル記でダビデの物語の中で描かれるイスラエル初代の王、サウル王と息子ヨナタンだろう。サウルはペリシテ人と勇敢に戦うが戦死する。「サムエル記下」では、ダビデが、サウルとヨナタンの悲惨な死を悼む歌が記されている。
「サウルとヨナタン、愛され喜ばれた二人 鷲(わし)よりも速く、獅子よりも雄々しかった。命ある時も、死に臨んでも 二人が離れることはなかった。泣け、イスラエルの娘らよ、サウルのために」(サムエル記下1:23、24)
聖書においては、サウル親子の死は悲惨な死であるが、そこで全てが終わったわけではない。続いて王となるダビデの系譜は、その後のユダヤ民族の中にも脈々とつながり、ユダヤ民族の栄光の象徴となる(例えば、現在のイスラエルの国旗は『ダビデの星』であるように)。そしてそれは新約の冒頭、イエスの系譜が長々と記されている中に書かれている通り、キリスト教にとっても重要な人物であることは言うまでもない。
物語の終盤近く、主人公サウルの顔に浮かぶ、印象的な、本当に印象的な人間らしい表情、それはユダヤ人である監督のラースローが、陰鬱(いんうつ)で重苦しい歴史を振り返った映画の中で描こうとした「希望」の表現なのかもしれない。
それがどのような状況の中で、どのような表情なのか、ぜひ映画館に足を運んでご覧いただきたい。新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町など全国で公開中。