2016年も間もなく終わり。本紙で「キリスト教から米大統領選を見る」や映画紹介コラムを執筆する青木保憲牧師と本紙記者が、キリスト教映画と2016年の映画について徹底的に語り合った。
12月某日、青木牧師のいる大阪城東福音教会を訪ねた。
これからのキリスト教映画を語ろう!
記者:青木先生の映画コラムを見ていると、本当にたくさん見られているなと驚くんですが、年間何本ぐらい見られてるんですか?
青木:だいたい映画館で3、40本。あとはレンタルDVDが安い日に借りだめしてます(笑)。合わせて100本くらいですかね。
記者:僕も映画館で見るのは40本くらい。家でDVDは寝ちゃうんですよ(笑)。好みはあるんですか?
青木:「今はやりのものは見ておこう」というのはあります。ヒットしているのは、みんなが興味や共感を持っているわけで、何に興味を持って、なぜ見るのかに関心があるし、とりあえず体験しておこう、あわよくば牧師として伝道にも使えたらなおいいかなと思ってます(笑)。昔の映画「ベンハ―」とか三浦綾子原作の「海嶺」みたいな、“いかにもキリスト教”的な映画はあまり好きではないんです。むしろ「え?意外にそんなところにもキリスト教が関連してたの?」というのが面白い。
例えば昔「ペーパームーン」という映画がありました。テータム・オニールが10歳でアカデミー賞助演女優賞を最年少で受賞した、女の子がイカサマ師についてあちこち旅をするという映画なんです。ペテン師が売って歩くのはなんと聖書なんです。それを「高価で貴重なもので」とか言って高く売りつける。そこにアメリカのある時代には“伝道者や宣教者がいかがわしさをもって社会から見られていた”ということが分かるわけです。それは今の日本の「異文化としてのキリスト教と向き合う人の受け取り方」に似てるのかなと思えたりもします。そういうところに面白みがあるんですよね。
記者:すごいストーリーですね(笑)。
青木:きれいな感動的な話より、ホラーやサスペンス映画、特にハリウッドものは多くがキリスト教の裏返しですよね。ホラーの名作「セブン」のテーマもまさに「罪」、特に「人を断罪していた人間が、いざ究極の状況に追い込まれたとき、同じことをしてしまった」という物語。だから私たちにダイレクトに突き刺さってくるんですよね。そういうことを考えながら見ると、非常に面白いですよね。
記者:私は30過ぎて、ソ連のアンドレイ・タルコフスキーの「サクリファイス」という映画を見たのがクリスチャンになったきっかけで、34歳に洗礼を受けたんですよ(笑)。西洋の映画は、背景にキリスト教的バックボーンがあるなぁとつくづく思うんです。写真でいえば、キリスト教が文化の中に「ネガ(陰画)」としてあり、プリントして「ポジ」にしたのが洋画みたいな。文学とかと比べても、その国の文化や社会や精神などあらゆるものがダイレクトに盛り込まれていて知ることができるのが、映画のすごさだなぁと思います。
そもそも「キリスト教映画」ってなんだ!? 3つのタイプで考えてみよう!
記者:まず、そもそも「キリスト教映画」ってなんだってことを伺っておきたいと思います。以前のコラムで3つに分類されてましたよね。①「キリスト教追体験型ムービー」、②「未信者用伝道ムービー」、③「キリスト教新解釈型ムービー」の3つ。
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青木:自分で勝手に名付けたんですけど(笑)。①は聖書の話そのものや、キリスト教やイエスの生涯そのものを題材にした映画ですね。「復活」「パッション」「十戒」「ベンハ―」とか、史劇映画と言えば分かりやすい。あるいは少し異色なのはミッキー・ロークがぶよぶよのお腹で演じた「フランチェスコ」とか「ブラザームーン・シスタームーン」とかも含まれるかもしれません。でもこういう映画をクリスチャンが未信者に勧める場合は②の「未信者用伝道ムービー」にもなってしまうと思います。
記者:②「未信者用伝道ムービー」とは?
青木:聖書やキリスト教を現代的に置き換えて自画自賛というか、自分たちクリスチャンの枠の中で納得して喜んでいるみたいな映画。牧師がこんなこと言っていいのか分からないですけど(笑)。
記者:ある意味「プロパガンダ型」というか。
青木:そう。自己完結してるんですよ。典型的なのは「神は死んだのか」ですね。
記者:ああ(笑)。
青木:最後、教授が死ぬ。神に逆らったから裁きを受けたんです。日本人はみんなラストに失望するけど、アメリカの福音派の人たちはあそこに喜んでいる。典型的な福音派の反応です。あれがまさに、「自画自賛」「自己完結型」の映画ですよね。あれが一番たちが悪いと思いますね・・・。
記者:「神は死んだのか」は面白い体験があるんです。私はカトリック教会の勉強会に行っているんですが、そこであの映画を見せられたんです。私はラストにがっかりしたんですが、外国人の神父さんはものすごく絶賛していらして、あと熱心なクリスチャンの主人公がフランクリン・グラハムの説教アプリを毎朝聞いているシーンがあるんですが、神父さんが「これ素晴らしいですよ。私も毎朝聞いてるんです!」とおっしゃってて、カトリックと福音派はやはり親和性が高いんだなぁってすごく実感したんですよね・・・。
青木:まさにそういう映画ですよ。「ジーザス・キャンプ」というアメリカ福音派に密着したドキュメンタリーを神学部の授業で見せると、みんなびっくりして引くんです。「洗脳だ!」って言って。あの映画は政治的なものを描くから、福音派の方も引くと思います。でも、あのマインドと「神は死んだのか」はとても似ている。少し行き過ぎの面が福音派にはあるんじゃないかなぁということを、学生に客観的に見せたいと思って見せるんです。自画自賛・自己完結型の中で、「あなたもこの輪の中に入りなさい」という上からの目線を感じるんです。
記者:でも、それは福音派に限らず、日本のプロテスタント教会全体にもあると思いますけど。
青木:もちろんです。それは宣教の原動力にもつながるから否定はしません。いい部分でもあります。でも“回心しなさい、さもないと最後神の罰を受けますよ”と脅迫的なまでに行くとまずいという感覚は大事ですよね。
キリスト教映画を見るときの西洋人クリスチャンと日本人クリスチャンの間にある「ずれ」と「溝」
記者:③「新解釈型映画」というのは?
青木:ハリウッドの大作に多いですね。西洋世界ではありきたりの聖書の話をそのまま作っても面白くないので、現代的な解釈でそれを提示しようという映画ですね。代表的なのがマーティン・スコセッシの「最後の誘惑」とか、最近だと「ノア」とか「エクソダス」ですね。一見①(「キリスト教追体験型」)のように見えるけど、クリスチャンが映画を見に行くと「あれ?教会で聞く聖書の話と違う?」と思ってしまう。「ノア」では、洪水が起こって神に選ばれてラッセル・クロウ演じるノアの家族だけが残るんですが、ノアの娘が妊娠していて赤ちゃんが生まれるんです。そこでノアは「神は人間を滅ぼそうとしているのだから、自分たちも船の中で滅びるべきだ。罪ある子が生まれるのは神の意志に反する」と言ってすごく怒って、乳児を殺そうとしてナイフを振り上げるんです。
記者:へぇ、アブラハムのイサク奉献が入ってるんですね。
青木:そうそう。でも最後の瞬間に、ノアはナイフを下ろす。そして「私は神の意志を最後まで実行できなかった」と失望してしまい、酒飲んでふてくされて寝ちゃうんです。
記者:すごい解釈ですね(笑)。
青木:あるいは「エクソダス」は聖書の十戒に全て科学的根拠があるとして描かれていて、モーセも若いクリスチャン・ベールが剣を奮って戦うように描かれています。
だから福音派の牧師たちの間からは「これはノアを間違って書いている。見てはいけない!」という運動が起こったんです。「最後の誘惑」も教会で「見てはいけない」と禁止されました。
でも西洋社会では、「聖書の新解釈」という映画は当たり前に成立するし、需要があるんです。それぐらい聖書物語は知られすぎてるし、精神や文化に染みついている。2千年も読まれ続けてきたから、当たり前です。
記者:でも同時に、それは表現者の苦闘でもありますよね。西欧だと、聖書やキリスト教は自分たちのベースにあるから、今更そのまま提示しても表現にならない。でもそこから離れることはできない。それを「いかに新しく描くか?」「新しく型を崩すか?」という苦闘ですよね。
青木:そうです。でもそれを日本のクリスチャンは②(未信者伝道用ムービー)として見に行くから「映画としては面白かった。でも聖書のモーセとは違うね・・・」と感じてしまうわけです。
記者:西洋では文学、社会、政治、その根底にキリスト教があるから、「新解釈型」の余地がある。でも日本ではそもそもベースにキリスト教がない。だから受け取り方に「ねじれ」が生じるということですよね。
青木:日本の保守的なクリスチャンは③(新解釈型映画)は絶対受け入れられない。でも神学を学んでいる人や牧師、教会の実際を知っている人からからすると、むちゃくちゃ面白いんですよね。「ノア」はアメリカで見たんですが、私の義弟は奥さんがクリスチャンで、成人してから初めてキリスト教に出会ったんですね。彼からすると、「ノア」は全くわけが分からない。「この人は精神異常なんですか?」という感想でした。
でも僕らからすると、蛇が出て来て、リンゴを食べる、子どもにナイフを振り上げるアブラハム的なシーンが出てきたり、聖書のいろいろなところのイメージとシンボルを使いながら、聖書のいろいろな側面が込められた総称としてノアを描き出しているんだな、と分かる。ましてや西洋人なら面白いと思えるわけです。
記者:でも日本ではキリスト教がマイナーだから、クリスチャンは「聖書をテーマにしたハリウッドの大作映画が公開!うれしい!」となるわけですよね。
青木:そうそう(笑)。「あの有名なラッセル・クロウが、マーティン・スコセッシが、キリスト教を描いた映画を作ってくれた!」となると、自分たちはマイノリティーだけど、一瞬だけメジャーになったような錯覚に陥るんですよ。
記者:なるほど(笑)。
青木:例えば、海外のセレブがクリスチャンだという記事は「あの有名な人が私たちと同じなんだぜ。それにキャーキャー言ってるけど、私たちの方が本質が分かってるんだぜ!」ということですよ。そこにいつもマイノリティーである人間が、たまに光が当たった喜びと同時に暴走があるんですよ(笑)。
記者:でも、実際に映画を見てみると「あれ?教会で言う聖書の物語と違うんじゃ?」となっちゃう。(続きはこちら>>)