なぜキリスト教のホームレス支援を研究テーマに選んだのですか?
私自身はクリスチャンではないし、家も宗教と特に縁はありませんでした。でも、1998年に大学受験のため、大阪・大国町の予備校に通っていたとき、公園に行くと、ホームレスの人や支援をしている教会の牧師さんがすぐそばにいました。私は、奈良県生駒市という典型的な郊外のミドルクラスの住宅地で育ったので、貧困の現場というものを初めてリアルに見たんです。それで、韓国系教会の牧師さんに声を掛けられて教会に行ってみると、マンションの屋上にプレハブ小屋を造って開拓伝道をしていて、在日コリアンの方やホームレスの方の中で、牧師さんがたどたどしい日本語で牧会をしていました。生活が困難な人々が肩を寄せ合って同じ空間に共にいるという姿をとても興味深く感じました。
大学では社会学の中でも、宗教社会学を専攻に選ばれたのですね。
宗教社会学を研究しようと思う中で、宗教における社会階層の問題が論じられていないと感じたのです。高度成長期には信仰の力で上昇を志向し、自己実現していくということがあったし、研究もあった。でもバブル崩壊以後、格差が広がり、一億総中流がリアリティーを失っていく中で、生きることに苦しむ人が宗教とどう関係していくかということに興味を持ちました。でも、先行研究は全然なかったんです。現在起きている問題を、フィールドワークという手法で研究したいと思ったとき、その経験から釜ヶ崎に行くようになったんです。
釜ヶ崎でキリスト教が支援活動していることは知っていたのですか。
プロテスタントのメーンラインの教会(釜ヶ崎キリスト教協友会など)やカトリックの支援活動の本は少しありました。でも実際に釜ヶ崎に行くと、その他に韓国系の教会や福音派といわれる教会が毎日伝道集会を行っていました。その両方の動きを捉えないといけないと思いました。そして、野宿しているおじさんたちが、支援している教会をどう捉えて利用しているのか。支援する側とされる側の関係が社会学的に重要だと思いました。
実際にはどのように調査されたのですか?
大学院の時は週の半分以上、釜ヶ崎に通っていました。おじさんたちと一緒に教会に行って、ワーシップソングを歌って、メッセージを聞いて、炊き出しのご飯を食べる。研究者然として座っても違和感があるので名乗ったりはしない。すると、「この兄ちゃんは若いのに何かわけがあるのかな」と思われて、時に会話が生まれるんです。あとは夜回り活動にも毎週参加していました。
「運動型」と「布教型」の2つの教会があると書かれています。
「運動型」は、路上生活からの脱却を目指すべく、福祉制度や行政にも働き掛けていく活動をしています。「布教型」は、路上生活からの脱却よりもむしろ内面の救済を目標にして、政治や福祉制度にはほとんど関心がないのです。両者の教会には壁があって、交流も接点もほとんどない。「運動型」は40年以上の支援の歴史があって、労働運動による支援が盛んな時代は、宗教による支援はむしろ労働者の意識を社会のひずみから目をそらすものだという批判も強く、その中で試行錯誤しながらずっと活動してきましたので、支援の中で「布教をしない」というのは自分たちの信仰的な信念としてあります。そこからすると、1990年代以降増えた「布教型」の教会の活動は、弱みに付け込んだやり方ではないかという批判があります。また「布教型」の教会は、行政や福祉、他の教会と関わろうとしないという側面があります。
でも、おじさんたちはどちらの教会も、「はしご」するんです。信仰は受け入れられないけれど、ご飯をもらうために行くという面従腹背(めんじゅうふくはい)な方もいます。でも、最初は炊き出しのために利用しているとしても、そのうちに教会の人と関係性ができてきて自分を見直し、内省的になって入信する方もいます。
野宿者の方に多く見られるのは、仕事をして家族もあって安定した生活をしていたが、生活基盤を奪われ、脆弱(ぜいじゃく)な状況に落ち込んでしまい、脱却したくても手段がないというケースです。自分に社会的役割がないというのはとてもつらいことなので、役割や場、親密性を求めて教会に関わるという方が多いです。
特に印象に残っていることなどありますか?
沖縄ベタニヤチャーチですね。10代、20代の若い方が多く、信仰を受容して、やり直して新しいコミュニティーを形成しています。彼らは、薬物依存であったり、家族関係も破綻したりしていて、いろいろな生きづらさを抱えています。共同生活をし、役割を与えられ、職業訓練を受け、職業紹介をされていく中で、自分の有用性に気付いていく。でも、一般社会に溶け込み、生き抜くようになれるかというと、強い罪責感や自信のなさから、理解してくれる他者がいないとなかなか厳しい。だから、行政の考える自立支援法とは別の、失業と一般就労の間のステップとしての中間的就労のような緩やかな自立の形が、信仰によって支えられているということもあり得るのではないかと考えさせられました。
それは社会の中での教会の在り方、公共性という問題にもつながる問題ですね。
公共領域の中で宗教活動をどう位置付けるか、ということです。社会活動の中で「布教はしない」「他者に信仰を強要しない」ということは、社会の中の当然のルールなわけです。でも、宗教による社会活動の中で、信仰を受容することで生きづらさを克服していく人もいます。それを「布教」だから駄目だといえるのか? どう評価できるのか?
また、オウム真理教による事件以降、宗教へのネガティブな評価が広がり、宗教の側はそれに対して「社会貢献」を言うようになり、宗教学からもそれを期待しているところがあります。しかし、「社会貢献」という言葉ではくくれないものがあるのではないか? それが「宗教の社会貢献を問い直す」というタイトルにした理由なんです。
社会の側からの宗教へ対する見方の変化もあるのでしょうか?
欧米では、宗教が社会に再参加するという動きがあります。政府が福祉の分野などでボランティアや宗教組織などの民間セクターを、ソーシャルキャピタル(社会基盤)として活動を担わせていくという大きな動きがあります。日本でも、NPOなどは根付いてきましたが、政教分離が強く機能していますので、宗教組織をストレートに活用するということはまだあまりありませんが、宗教組織もNPOをつくって活動しています。でも、宗教の側面は正面から論じられてはいません。だから、FROという概念で広く捉えてみようと考えました。
今年4月に本書を出版されての反響はいかがですか? キリスト教関係者からの反応は?
社会学や福祉学、宗教学、貧困問題など、本書のターゲットは幅広いと思います。でも今のところ、教会やキリスト教関係者の方からの反応はほとんどありません。ホームレス支援をされている教会は多分100カ所以上あると思いますので、その活動を見つめるという意味でも読んでいただけたらうれしいと思っています。
これからの研究は?
ホームレス問題から広げて、移民(ニューカマー)の問題を宗教の観点から問い直してみたいと思っています。「多文化共生」という言葉は最近よく聞きますし、耳障りの良い言葉ですが、宗教や信仰をその中できちんと考えてきたのか、という疑問があります。たとえば、1970年代以降、ボートピープルとして来たベトナム難民の方は、日本に定住する中で宗教が大きな役割を果たしてきました。難民、出稼ぎ、技能実習生といったさまざまな背景を持った外国人が日本人と交わる場所として、カトリック教会が機能しています。このような新しくてダイナミックな状況を自身の研究として捉えていきたいと思っています。
カトリックには「他者」を排斥するのではなく、受容し共に生きる規範や制度がある。その中でもさまざまな葛藤を抱えながらコミュニティーは変容していく。それを丁寧に検証して研究していきたいと思っています。
■ 宗教の社会貢献を問い直す:(1)(2)