大阪市の應典院(浄土宗大蓮寺)で5月27日、「宗教の社会貢献は、本物か」と題して、宗教社会学者の稲場圭信氏(大阪大学准教授)と白波瀬達也氏(関西学院大学准教授)、僧侶の秋田光彦氏(同寺住職)による研究会が行われ、約30人が集まった。
第一部では、この日のゲストで、『社会貢献する宗教』『震災復興と宗教』(共に共著)などの著作があり、2006年から「宗教の社会貢献活動研究」プロジェクトを続けている稲場氏が、この20年間の変化に触れ、阪神・淡路大震災はボランティア元年とも言われながらも、日本は「思いやり社会」にはならなかったと指摘した。3万人の自殺者、孤独死、無縁社会、格差社会、さらに情報網の発達、終身雇用の崩壊、グローバリゼーションによって社会構造も大きく変化し、地縁、社縁、血縁という絆も希薄になり、多くの人は「生きる意味の貧困」に直面している。また最近では、ヘイトスピーチの問題が広がっている。
一方で稲場氏は、東日本大震災以降、少しずつではあるが社会の変化も感じると言う。1990年代後半、英国では「利他主義」についての実証主義的な研究が進む中で、利他的な精神が育つには、①倫理的な教えと宗教的な実践、②模範となる信者とのコンタクトや生きたモデル、③他者との共同作業を通してのコミュニケーション、が重要であることが明らかになってきたという。また調査を行い計量分析すると、「無自覚の宗教性」に基づいたボランティアが明らかに長く継続するという。宗教的利他主義とは、宗教の社会的在り方や、他者や社会との関わり方への問いでもあり、具体的な活動は、災害時救援活動や発展途上国支援活動、環境への取り組みなどと幅広い。
自治体と宗教施設の協力 災害時における宗教への期待
東日本大震災では、稲場氏や国学院大学教授の黒崎浩行氏らが中心となり、震災直後からウェブ上で「宗教者災害救援マップ」を作成し、救援情報の交換の場を提供した。しかし、一定の成果を上げながらも、宗教や宗派・教派を超えた連携には発展せず、平常時からの取り組みの必要性を感じたという。そこで現在は、全国の避難所や宗教施設約30万件のデータを集積した「未来共生災害救援マップ」を作成。GPSと連動させ、災害時にはSOS信号も出せるアプリも作成している。
東日本大震災では100以上の寺・神社・教会が避難所となったが、この動きは現在も進んでおり、「全国の自治体と宗教施設の災害協定」(2014年)では、全国の宗教施設2401カ所が災害時の避難所に指定されるようになり、303の自治体が、宗教団体(寺189、新宗教27、神社26、キリスト教会6など)と協力関係を結んでいるという。一方で、光熱費や食費など避難所で発生する費用を、宗教団体が負担するのか、自治体が負担するか、政教分離や公金支出の面からクリアすべき課題もまだあると指摘した。
また、災害時における宗教への期待・ニーズは大きいと言い、2013年の調査(第11回学生宗教意識調査報告)を紹介。「災害時に宗教や宗教家の役割はあるか?」という問いに、「必ずある」という回答が20・6%、「いくらかある」が46・6%だったという。宗教家や宗教施設が果たせる役割としては、「避難場所となるスペースの提供」が58・3%と最も多かったが、他に「こころのケア」(50・9%)、「供養や慰霊」(40・0%)などが挙がった。
説明の必要性 日常的に「苦」に寄り添う
稲場氏は、ここ20年間で宗教者の社会への関わりが増えているとする一方、宗教側は「陰徳」として善行を積む傾向があると言い、個人にも組織にも説明責任が問われる現代では、もっと説明する努力が必要だと指摘した。
近年注目されている「臨床宗教師」は、大きな可能性があると評価しながらも、それ以前から社会活動やさまざまな「苦」に寄り添って地道に活動してきた宗教者たちからすると、メディアで臨床宗教師だけが脚光を浴びることに、違和感を感じるという声もあるという。また、宗教活動にビジネスモデルを導入し、法話や説教のマニュアル化といった動きもあるが、日常的に社会の中で苦の現場に関わっていなければ、型にはまった話のメッキが剥げるとも指摘した。
日本では、自分を「無宗教」と考える人は約7割を占めるが、「無自覚に漠然と抱く自己を超えたものとのつながりの感覚」ともいうべき「無自覚の宗教性」があり、それは今なお、日本人の多くに共有されているとも指摘。小手先ではなく、人の心、つながりの大切さを見直すことが重要だと強調した。
本物の社会貢献とは? 布教と社会活動の線引きとは?
第2部では、会場から質問が出され議論が行われた。「そもそも“本物の社会貢献”とは何か?」という質問には、稲場氏は「一つは継続することです。“苦”の現場にずっと寄り添って持続して活動しているか、ということだと思います」と答えた。
「“布教”と“社会活動”の線引きとは?」という質問には、「臨床宗教師は布教をしないことで、制度の中で活動できるようにしたことに画期的な意味があると思う。しかし、海外の宗教団体の活動を見ていると、布教をするつもりがなくても、活動をする人の中にその人の宗教性が自然と出てくるものだ。それはマイナスではない。現場に関わる中で関係性が生まれ、その姿を見て影響を受け、その宗教に興味を持つこともあるかもしれない。それを『布教』だからダメだと一概には言えない」と述べた。一方、「一部のキリスト教団体が、災害時に『悔い改めろ』というアプローチをするケースも目にしたが、それは問題だと思う」とも指摘した。
應典院の秋田住職は、「私も、社会活動をしても布教の意味がないじゃないかと、20年間言われながら活動してきたんです」と述べた上で、社会の中で宗教の力が見直されつつあると語った。
「英米では、国が全ての社会福祉を担うと財政的な負担が大きいので、宗教をソーシャルキャピタル(社会関係資本)として活用するという選択をした」と説明。日本でも、行政が社会福祉を民間にも負担させる狙いからNPO法が成立。当初、宗教は除外されていたが、国の財政がひっ迫するなかで、社会の意識も変わってきたという。「宗教が社会の中で果たせる可能性は増えていると思う。たとえば、お寺も活動のためにファンドレイジングをするなど、新しいやり方があってもいいと思う」と述べた。
東北の被災地で活動してきたジャーナリストからは、こんな意見も出された。「私が出会ってきた被災地で活動する宗教者は”社会貢献”という言葉など使わない。聞かなければ自分が僧侶や宗教者と名乗ることすらしない。『一人の人間として当たり前のことをやっているだけだ』と答える。誰かのために何かをする、隣の人に手を差し伸べることが、宗教者、信仰として当たり前のことではないか。自分たちが宗教者として社会に関与することを自覚していないからこそ、あえて”社会貢献”という言葉をわざわざ出すのではないか?」
これに対し、司会の白波瀬氏は、「個人の働きとしては、まったくもっともだと思う。ただし、宗教団体という組織として、外部に自らの活動を、外部や他者に伝わる言葉で説明するときには、“社会貢献”という説明になるのだと思う」などと応答。この他、さまざまな質問や意見が出され、約2時間にわたって活発な議論が行われた。