愛と憎しみ・妬(ねた)みは、紙一重。アムノンの恋がそれを表しています。アムノンとタマルは異母兄妹でした。タマルの実兄はアブシャロムです。タマルは美しい娘で、アムノンは彼女に恋をし、苦しみ患うようになりました。なぜなら、タマルが処女であって、何かするということはとてもできないと思われたからです。ところが、いとこにそそのかされ、アムノンは力ずくでタマルをはずかしめました。その後、恋する思いは激しい憎悪と変わってしまったのでした。
アムノンの恋の対象は、タマルだったのでしょうか。いいえ、タマルの美しさです。タマルは、アムノンの肉欲、性欲の対象に過ぎなかったのです。アムノンの罪は、アブシャロムの憎しみを生み、殺人へと発展しました。父ダビデのなし得たことは、「ただ彼(アブシャロム)に祝福を与え」(2サムエル13:25)「いつまでもアムノンの死を嘆き悲し」(同13:37)むしかありませんでした。
憎しみ・妬みは、下位・不利な立場の者が持つ感情とばかりはいえません。たとえ優位な立場にあっても、サウル王のダビデへの非常な愛が憎悪と嫉妬と化し、殺意へと進んだように、また、エルカナの妻ペニンナが子を与えられていたにもかかわらず、不妊の妻ハンナを憎んだように、です。
時代が変わっても、人間の本質は変わりません。人が「愛」といっているものが、果たして「愛」といえるのか疑問です。「愛」はなくとも、「恋」は成り立ちます。「愛」はなくとも、「夫婦の形」は成り立ちます。しかしある時、「憎しみ・妬み」の思いに豹変し、有形・無形の殺人をやってしまうのです。
「愛」が神にあること、そして、「愛」はそれ自体で存在し得るものであること、さらに、「愛」は無償のものであることを、絶えず確認していたいものです。(続く)
■ 賢い女、賢い妻:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)
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前田基子(まえた・もとこ)
イエス・キリスト緑の牧場教会(東京)で救われ、玉野聖約基督教会(岡山)から献身。生駒聖書学院卒。生駒聖書学院副院長。エリムキリスト教会牧師。ABCラジオ放送「希望の声」・テレホンメッセージ「希望の声」(074・373・3740:ゼロナシ・ミナサン・ミナヨレ)牧師。