憎む側、妬(ねた)まれる側、どちらが悪い?
「これがねたみの場合のおしえである。女が夫のもとにありながら道ならぬことをして身を汚したり、または人にねたみの心が起こって、自分の妻をねたむ場合には、その妻を主の前に立たせる。そして祭司は女にこのおしえをすべて適用する。夫には咎がなく、その妻がその咎を負うのである」(民数記5:29~31)
不公平、不合理だと思いませんか。けれども、姦淫の女(ヨハネ8章)に対するイエス様の対応に至極納得がいきます。主が事を明らかにし、主は完全な解決をお与えくださるのです。私たちの主への信頼度が問われます。レアとラケルに学びましょう。
ヤコブのラケルに対する愛は、7を倍するほどでした。ラケルは美しく、才気に富んでいましたが、主はその胎を閉じておられました。目の弱かった姉のレアは、ヤコブに3人の子どもをもうけました。その名「ルベン:子を見よ、シメオン:聞く、レビ:結ぶ」から、ヤコブの愛を何としても得たいというレアの悲痛な叫びが聞こえてきます。素晴らしいですね。主は私たちの叫びを賛美に変えてくださいます。4番目の子の名は、「ユダ:ほめたたえる」と付けられました。主はここでレアの胎を閉じられました。
一方、ラケルは姉を嫉妬し、女奴隷ビルハによって2人の子を得ました。「ダン:正しい裁き、ナフタリ:争う」。「愛」に比較を持ち込むそのとき、「愛」はいのちを失います。
レアも、女奴隷ジルパによって2人の子を得ました。「ガド:幸運がやって来た、アシェル:なんと幸せなこと」。主はレアの胎を再び開かれ、「イッサカル:報酬をくださった、ゼブルン:共に住む」をお与えになりました。そして、レアに最後に生まれた子は、「デイナ:審(つまびら)かれる」と名付けられました。
レアにも嫉妬に狂う女のさががありました。しかし、「子は神の賜物」だと賛美と感謝をささげたレアを、主はアブラハム、イサク、夫ヤコブも入るマクペラのほら穴に葬らせました(ラケルは違います)。また、主はラケルに実の子「ヨセフ:加える、ベニヤミン:右手の子」をお与えになり、ヨセフを族長として立たせ、ラケルの生涯も輝かせなさったのです。
憎しみ、妬みの感情は、肉を持っている限り致し方ないことでしょう。けれども、私たちは主のご支配とお取り扱いが完全であることを覚えましょう。そして、主に信頼し、「愛する愛」を育み続ける者でありたいと思います。(続く)
■ 賢い女、賢い妻:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)
◇
前田基子(まえた・もとこ)
イエス・キリスト緑の牧場教会(東京)で救われ、玉野聖約基督教会(岡山)から献身。生駒聖書学院卒。生駒聖書学院副院長。エリムキリスト教会牧師。ABCラジオ放送「希望の声」・テレホンメッセージ「希望の声」(074・373・3740:ゼロナシ・ミナサン・ミナヨレ)牧師。