米田武義
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術国内留学生)で学ぶ。国土防災技術を退職し、米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』。
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術国内留学生)で学ぶ。国土防災技術を退職し、米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』。
今年になってから、何度落ち込んだことであろう。奈落の底に落ち込んだような深い失望と、悲しみの混ざった救いようのない気持ちに何度襲われたことであろう。
深刻な問題、特に病気や死が自分に関わってくると、この問題が頭の中を占領し、この問題を中心とした考え方になりがちである。無意識に考え行動していると、人間としては当然の成り行きだと思う。
今私は、計画を立てて何かをするというのがなかなかできない。病院に行く日が不定期であり、化学療法を施すと不定期に不愉快な症状が現れるからである。しかし私はなるべく規則正しい日常生活を送ろうと思う。
この世にあっては、人は実際に金を儲け、社会の一員としていずれかの国の一地域に住居を構え、毎日食べ生きていかねばならない。
今回病人となるまで、自分の仕事についてあまりよく考えたことがなかったと気付く。成り行きで選んだところもあるし、自分がその時点で一生懸命考えたところもあるが、しかし自分の志す職業であったことに相違ない。
今回病気を宣言されてからこのかた、全ての人々の背後に神の力が働いていることを認めざるを得ない。初めには予想もしなかった大阪市立大学病院で化学治療を受けている。
今日は、夕食のお祈りの時に私が祈っていると、康子がもっと強く強く神様にお頼りした方がよいと言った。私の病のことに関してである。
正しすぎてはいけませんと戒められている。私たちは時として、富に頼りすぎてこれだけあれば将来安心して暮らせるなど、自分自身で計算してサッパリとした気持ちになっている時がある。
初めのうちはあまり見舞いに来てくれなかったが、康子も最近になってほぼ毎日来てくれるようになった。元々病気を極端に怖がるところがあるので、この1カ月あまり相当なプレッシャーが掛かってきたであろう。
腸の手術などをすると、しばらく笑うのが怖い。胆に響くのである。笑うということがこれほど筋肉全体を揺り動かすとは!! 聖書では、笑いは応々にして否定的な目で語られているが、喜びの極致として捉えられている箇所もある。
本当に苦しい時、自分の力ではいかにも難しい時、私はもう子どものように、子どもが親に助けを求めるように、神様に助けを求める。精神的な苦痛、肉体的な苦痛を神様に訴え、助けて下さい、何とかして下さいと、ただ執拗に泣き叫び続ける。
深く瞑想していると、義人と思われる人にもいろいろなタイプがあるなあと思う。社会的には非常に頼りないような存在ではあるが、神を畏れ、同時に敬うことは並はずれて強く、また逆に言うならば、そういった性格が神への強い畏敬の念となったのだともいえる。
私たち人間は、この世にいる限り罪を犯すことから逃げられない。いかに注意深くあっても、いかに信心深い人であっても、皆同じである。
私は学校を出てから就職したが、技術職だったので、大学院でそれらの技術を身につけたと見なされ、初めから人を数人使う立場に配置された。その部門(地震探査)では、私が先駆者であった。
私は墓守りを弟に譲ってから、一度も弟の主催する法事に出席していない。私は私でキリスト教墓地に父母の分骨をしたので、神様はその方を喜ばれると思ったからである。
病床にある人と見舞いに来てくれる人の間には、時として気持ちの上で大いに隔たりがあるということが分かった。特に非常に苦しんでいる時など、はっきり言って一人にしてほしい。
神との交わりの時を1日1回は持つ。他の仕事が忙しい時は、その仕事を止めてでも交わり優先。聖霊は、私が意識していようがいまいが存在する。幼い時は、父母、次いで自分が中心であったが、涙をもって決心した時、聖霊が自分の中心になった。
昨日、大田医院で細胞片のチェック結果が出た。やはり大腸がんである。結腸でかなり進行しており、すでに肝臓や血液の中に大量に広がっている。
昨日、かかりつけの大田クリニック院長より、大腸がんであることを告げられた。ショックというより残念というような気がした。
訳もなく、涙が出てくる時がある。今まで平和な気持ちで眺めたこのベランダからの景色も、もう同じ気持ちでは見ることができない。