レガシーといえば、スバルの高級車にもありますが、「受け継がれたもの・遺産」という意味です。大きな集会でメッセンジャーがこの言葉を使っていて、カッチョイーと思った記憶があります。
今日は聖書から、「受け継ぐ」という言葉の霊的な意味を見ていきたいと思います。
1. 祝福
最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。(1ペテロ3:8、9)
「最後に申します」とあるのは、「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったので」(同2:25)、結論を言いますよということです。
8節を、2章25節を加味して要約すると、「死ぬはずのハグレ羊たちがいのちの牧者キリストのもとに帰ったのだから、群れの羊として心を一つにし、肉的弱さを同情し合い、キリストの血縁関係として愛し合い、信仰であわれみ深くし、仕える者として謙遜に信仰生活を送りなさい」となります。
9節は羊的信仰生活の具体例で、「①人からの悪で被害にあっても、悪で仕返しをしない。②人からの侮辱で傷ついても、侮辱で仕返しをしない。③それどころか、加害者に祝福を祈って、神からの祝福を受けられるようにしなさい」となります。
悪や侮辱に仕返しをしないで祝福を祈る理由は、牧者キリストの羊たちが神からの祝福を受け継ぐために召されたからです。神から愛とあわれみにより代々受け継いできた祝福を受け取り、次の世代に引き継ぐのです。
祝福も呪いも霊的な力であるから、良い事も悪い事も、健康も病気も差別なく力でやってきます。
「彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。彼はおのれの衣のようにのろいを身にまといました。それは水のように彼の内臓へ、油のように、その骨々にしみ込みました」(詩篇109:17、18)
内臓とは肉体に関すること、骨々とは魂とか精神に関することを意味しています。
2. 幸いな日々
いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。(1ペテロ3:10、11)
この聖書箇所を要約しますと、「いのちを楽しんで過ごし、幸いと感じる日々を過ごしたいと望むなら、勝手気ままに悪を語る舌を自制し、自己弁護の偽りを語らず、悪から遠ざかって偽善ではない善を行い、平和を願うだけでなく平和を追い求めなさい」となります。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)
福音の究極は、神の子どもとされることです。平和をつくる者こそ、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いない人です。その人は癒やされたいのちを楽しみ、災いから救われ、幸いな日々を過ごします。
また、神の子どもたちは、祝福である天の御国の遺産・レガシーを受け継ぐ者たちです。
3. 主の目、耳、顔
主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。(1ペテロ3:12)
主キリストの目は悪人を見ず、義人を見て必要に応じて祝福します。主キリストの耳は悪人の祈りを聞かず、義人の祈りを聞いて必要に応じて応えます。しかし、主キリストの顔は悪人に向けられ、対抗します。
主キリストの働きは、義人の行動を見て、祈りを聞いて祝福し、感謝を起こさせて御国に導きます。悪魔の働きは、悪人の行動を見て、祈りを聞いて試練にあわせ、失望させてハデスに導きます。
一般的に、主キリストは義人を祝福して御国に導きますが、悪を行う人に対抗して立ち、悪をくじいて悔い改めさせ、善を励まします。
悪魔は悪人を見て、試練にあわせて失望させ、人生を滅ぼすのです。
まとめ
悪や侮辱に仕返しをしないで祝福を祈る理由は、私たちキリストの羊たちが祝福を受け継ぐために召されたからです。代々受け継いできた祝福を受け取り、次の世代に引き継ぐのです。
私たち、御子キリストを信じ、神の子どもとされ、平和をつくる者は、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いない人です。その人は癒やされたいのちを楽しみ、災いから救われ、幸いな日々を過ごすのです。
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