私たちは、誰かを模範にして生きています。価値観や人格の形成には、模範になる優れた人が必要だからです。
聖書によれば、信仰の父アブラハムは、神によって選ばれた信仰の模範です。彼は信仰により義とされました。キリストを信じ、イエスを模範とする私たちも、信仰により義とされると聖書に書かれています。
1. 善と忍耐
罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。(1ペテロ2:20)
「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう」とある意味は、「ありがちなことですが、あなたが罪を犯して罰せられ、罪からの試練を忍耐しても、結果的に誉れにはならない」ということです。これではキリストを証しできません。
一方で「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです」とある意味は、「あまりないことですが、善行によって苦しみを受け、善からの試練を忍耐するなら、結果的に神に喜ばれます」ということです。つまり、これによってキリストを証しできるのです。
もっぱら肉的である私たちは、罪による試練を忍耐することで自己満足していて、何も誇れるものがないのかもしれません。しかし、善行による試練を忍耐しているとしたら、その人の人生は神に喜ばれ、誇れるものとなります。
2. 足跡と模範
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(1ペテロ2:21〜23)
21節の意味するところを要約すると、次の通りです。「あなたが神に呼ばれたのは、善行で試練に会っても忍耐し、神に祝福される人生を生きるためです。善行して忍耐する私たちの模範として、キリストも地上での善行による苦難を忍耐し、死刑までの33年間の足跡を、信仰の模範として残されました」
22、23節の意味はこうです。「キリストは人としての人生を忍耐しただけでなく、信仰により、罪を犯すことなく、うそをつくこともなく、そのキリストの忍耐は模範として残されました。それはキリストが、神に選ばれた私たちの道となるためでした」
キリストの忍耐は、キリストを模範にしてその足跡に従う私たちの道となるためでした。「私が道であり、真理であり、いのちなのです」とキリストが言われたように、ついにキリストの足跡は、私たちを御国にあるいのちに到達させるのです。
私たちは、キリストの模範を聖書から学び、キリストの苦難の足跡に従うことで祝福されます。
3. 十字架と義
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(1ペテロ2:24、25)
24節の意味するところを要約すると、こうなります。「神により、人の罪の身代わりとして御子キリストが選ばれましたが、キリストご自身の意志で、死刑の十字架を負われました。それは私たちが、模範としてのキリストに従い、罪からくる死を離れ、信仰による義に生きるためです。私たちの傷は、キリストの打ち傷により癒やされたのです」
25節の意味を要約するとこうです。「羊は、飼い主がいないと迷い、傷つき死んでしまいます。あなた方は牧者や監督がいない羊のようにさまよっていましたが、天地創造の初めのアダムとエバの時のように、まことの牧者キリストのもとに帰ったのです」
イエス・キリストを信じる私たちは、キリストの死により、天地創造の初めのエデンの園の時のように、まことのいのちをもって生きる特権を得て、罪赦(ゆる)され、義人として生きます。病と死の傷がなかったエデンの園の時のように、キリストの打ち傷によって癒やされるのです。
まとめ
罪による試練を忍耐しても、誇れるものは何もないですが、善行による試練を忍耐すれば、神に喜ばれ、誇れる人生となります。
キリストの忍耐は、キリストを模範にしてキリストの足跡に従う、神に選ばれた人々のためのものです。
牧者がいない羊のようにさまよっていた私たちは、天地創造の初めのアダムとエバの時のように、まことのいのちを得て癒やされて、まことの牧者キリストのもとに帰るのです。
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