目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされ・・・言われた。「・・・人はどんな罪も冒涜(ぼうとく)も赦(ゆる)していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。・・・まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。・・・あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」(マタイ12:22~37)
コロナ禍で制約が多い毎日ですが、私たちはどんな状況にあっても神の恵みを意識し、良い物を選び取ることを心掛けてまいりましょう。今日の聖書箇所は長いですが、テーマとなる御言葉は「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出す」(35節)です。気を付けるべき3つのことを確認しましょう。
1. 自分の生活の質に注意を払う
「木のよしあしはその実によって知られるからです」(33節)とあるように、木に実がなると、何の木であるのかが分かります。私たちも、毎日の生活の中でどのような実を結んでいるかを吟味してみましょう。聖書が語るように、「良い人」は良い倉から良い物を取り出す人生を歩みます。しかし、神様の恵みから離れた「悪い人」は、悪い倉から悪い物を取り出すのです。私たちも、心の良い倉から良い物を取り出す者でありたいと思います。
イエス様が語られた良し悪しは、私たちの命の質に関わってきます。良い実を結ぶ人は、心の中に清い命が流れています。しかし、人をさばいたり呪ったりする人は、そのような命を宿しているのです。私たちは、自分の言葉や行動に気を付けましょう。
2. 聖霊に満たされているか
良い実を結ぶことは、単にマナーやノウハウを身に付けるということではありません。私たちの心が、良い霊である聖霊に満たされているのか、悪い霊である悪霊に支配されているのかということです。
人間は霊的な存在なので、何らかの霊で満たされます。もし悪霊の影響を受けてしまうと、悪い倉を持ち、悪い物しか出てこなくなってしまうのです。しかし、クリスチャンである私たちは、聖霊が働く「聖霊の宮」とされていることに感謝しましょう。私たちは祈り、賛美し、主の御名を褒めたたえることによって、良い霊である聖霊を頂くことができるのです。
3. 主イエスを救い主として認めているか
聖霊に満たされることを願うとき、大げさなことをする必要はありません。必要なことは、私たちがイエス様を救い主として認めるということです。
今日の箇所では、悪霊に取りつかれた人をイエス様が癒やしたことで、イエス様とパリサイ人たちとの論争が起こったことが記されています。イエス様に嫉妬し、イエス様を言葉の罠にかけて訴えようとしたパリサイ人たちは、イエス様のことを「悪霊のかしら」と決めつけ、イエス様を救い主として信じることができませんでした。そして、イエス様はパリサイ人たちのことを表面的には律法を守っていても、心の中は腐ったような者と見抜かれていたのです。
私たちは、イエス様を救い主として受け止めているでしょうか? イエス様はよみがえってくださっただけでなく、天に昇られた後に聖霊を送ってくださいました。良い霊である聖霊に満たされると、私たちの心には良い物がいつも宿り、良い倉から良い物を引き出すことができるようになるのです。
さあ、恵みを求めて祈りましょう。世の中の悪い影響を受けず、良い物で心をいっぱいにしましょう。
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