もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。(1コリント15:17~21)
今や当たり前になっている日曜日のお休みですが、これはイエス様のよみがえりがあったからだということをご存じですか。人々は律法に基づいて週の7日目の安息日を守っていました。しかし、イエス様の復活は週の始めの明け方に起こったため、クリスチャンたちは、律法を守ることで神の愛を受けるのではなく、十字架の福音によって救われるという証しに立ち、週の始めである日曜日の朝に礼拝するようになりました。ローマ帝国の時代には、激しい迫害を受けてもクリスチャンの信仰が増え広がりました。そして、ついに皇帝がクリスチャンの信仰を認め、安息日として教会で礼拝する日を日曜日にすると定められました。それが現在まで続いているのです。
パウロが12節でコリントの人たちへ「皆さんの信仰は大丈夫ですか?」と問い掛けたように、あなたにも同じように問い掛けたいと思います。イエス様の復活は、私たちのいのちに大いに関係しています。このことを受け止めていらっしゃいますか。聖書は、繰り返し「神が共におられる」と語っています。いのちを捨てるまでの愛を私たちに示し、どんな困難の中でも「わたしはあなたと共にいる」とおっしゃるイエス様が一緒にいるならば、悪魔は追い出され、私たちは不安や絶望、憎しみから解放されるのです。
そうはいっても、イエス様が復活されたことの科学的な証明はありません。しかし、復活がなければ決して起こらない変化がありました。イエス様が十字架につくときには逃げ出した弟子たち全員が、死ぬまでイエス様の復活を証言し続けたのです。復活の目撃者となった彼らは、拷問されて殉教しても、イエス様がよみがえったことを否定できませんでした。私たちへ与えられたイエス様の復活の意味を確認しましょう。
1. キリストの復活は事実(17節)
イエス様が十字架で私たちの罪を贖(あがな)った後によみがえらなかったならば、私たちは神話を当てにする愚かな存在であったことでしょう。イエス様は、死を打ち破る神のいのちによってよみがえられました。これにより、死を超えるいのちが事実となりました。
2. キリストの復活は私たちのモデル(20節)
いつかこの地上で私たちの肉体は死にますが、魂はイエス様と共によみがえり、神のいのちによって生きる者とされます。この永遠のいのちがあることを約束するために、イエス様は死んでも生きる者のモデルとしてよみがえってくださいました。
3. 復活は誰にでも与えられるべき福音(21節)
聖書は、救い主を通して死を超えるいのちがすべての人に与えられることを語っています。イエス様は、全人類の罪を背負われた偉大な救い主です。自分の救い主としてイエス様を受け入れるなら、誰でも神のいのちを頂くことができるのです。イエス様の十字架と復活を、しっかり自分のものとして受け止めましょう。
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