イエスは・・・言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、・・・会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、・・・見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」・・・イエスは・・・人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。・・・ひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。・・・イエスは・・・こう言われた。「・・・この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。(マルコ12:38~43)
三寒四温といいますが、季節は確実に春へと向かっています。あなたの心や毎日の生活にも命の与え主であり、無から有を生み出す神様の新たな恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りします。天地創造の神様は、主の名を呼び求める者の近くにおられ、何があっても変わらず、約束を守り通してくださるお方です。私たちは小さく弱い者ですが、信仰を働かせてイエス様とつながり、共に歩み、聖霊の恵みを頂けるよう信仰を整えてまいりましょう。
今日、私たちの信仰の在り方をもう一度見直しましょう。イエス様は十字架にかかって自らの命を捨てて、私たちを罪の呪いから救い出してくださいました。一歩でも半歩でもイエス様に喜ばれ、愛されるにふさわしい私たちであるために、神様の変わらぬ愛と救いの恵みを感謝しながら霊的に成長させていただきましょう。
今日の聖書の箇所では、2つの対照的な人たちについて語られています。一つは、律法学者やパリサイ人のように、社会的には立派かもしれませんが、目立って人々の注目を浴びることが大好きで、見栄を張る人たち。貧しい未亡人には厳しく律法を守ることを要求する人たちです。イエス様は、このような人たちの中身のない空しい信仰に対して、人一倍厳しい罰を受けると言われました。一方で、パンがやっと一つ買えるほどのお金をささげた貧しい未亡人に対しては、金額ではなく生活費の全部をささげて、誰よりもたくさんささげたと認められました。
では、弱い私たちが神様に喜ばれる中身のある信仰を持つにはどうすればよいのでしょう。
1. 人の目を気にする信仰からの脱却
ユダヤ人は律法を守ることに熱心でしたが、神様に目を向けるのではなく、世間体や外見にこだわり、人の目を気にする信仰生活に陥っていました。日本人も、ユダヤ人と似ているといわれます。勤勉で伝統を重んじる良い部分を保ちながらも、体裁や人目を気にする信仰からの脱却が必要です。
2. 神様とつながる心のこもった信仰
自分自身の信仰の行動を見直しましょう。祈りは、感謝と主に対する信頼を込めて祈る。助けを求めるときは、切実な思いで祈り、人間関係や仕事、経済の問題解決、家族や友達の癒やしを損得勘定ではなく、愛と思いやりを込めて祈る。献金は、ただ習慣だからとか嫌々ではなく、感謝して、さらにささげられるように祈りつつささげる。このように、信仰の行動に中身が伴っていることが大切です。
3. 神を愛し当事者としての信仰を働かせる
イエス様がこの話をされた目的は何でしょう。パリサイ人の信仰を批判し、やもめの信仰は素晴らしいと褒めて終わってはなりません。自分自身が当事者となることです。イエス様の十字架の死によって、罪が贖(あがな)われ、神の子とされ、永遠のいのちまで頂いていることに感謝し、中身のある充実した信仰をもってイエス様を見上げましょう。イエス様の十字架の恵みは、他でもない私たちのものです。十字架の死から復活された主のよみがえりの命と力を頂き、励まされて歩みましょう。そして、私たちの持てるものすべてをもって主を愛し、祈り、心から感謝し、おささげして、当事者としての信仰を実践しましょう。
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