エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって・・・そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。(ヨハネ5:2~9)
東日本大震災から10年がたち、自然災害の脅威の前に、何もできない人間の弱さや命のはかなさをあらためて感じます。被災された方々は「もしも、あの時もっとこうしていれば・・・」と今も感じることがあるのではないかと思います。10年の時の中で、牧師としての使命を持って祈り、励ましたいと声をお掛けしますが、人として励ます言葉を探すことの難しさを感じています。目に見える部分は、時間とお金をかけることで復興していきますが、人の心は、その時のまま止まってしまった方が大勢おられるようです。人間的な愛情を持っても助けられないことはありますが、命の与え主である神様に目を向け、救い主イエス様の十字架と復活の福音に接することができれば、被災された方々の道が開かれ、癒やされていくと信じます。
今日は他とはまったく違う、救い主でしか与えることのできない恵み、主の癒やしの素晴らしさを3つのポイントで確認してまいりましょう。
1.人生の時が再び動き始める
イエス様と出会うと病気の症状が癒やされるだけでなく、止まっていたままの人生の時も動き始めます。常に物理的な時間は動いているのですが「大きな失敗をした」「大病を宣告された」「人間関係の大事件」などをきっかけに、いつの間にか心の時が止まってしまうことがあります。この聖書箇所では、38年間、世から捨てられ、ただ言い伝えを信じて生きるだけだったこの男の人生の時は止まったままでした。しかし、イエス様の方から彼に近づいて来られ「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われました。その瞬間に癒やされ、彼の人生の時は再び動き始めたのです。
2.人のせいにしてきた人生からの解放
イエス様に「よくなりたいか」と問われたこの男は「私には助けてくれる人がいない」と答えました。38年の間に彼の心は荒みきって、病気を人のせいにしてしまったのでした。私たちも同じように自らに起こった出来事を他人や周囲や環境のせいにしてしまいがちですが、イエス様は私たちにも「よくなりたいか」と問われています。私たちに病人としての床を取り上げて自分の人生を歩きなさいと語られています。責任転嫁して逃げ回る人生から、自分自身の人生を見つめる当事者となろうではありませんか。主の前に立ち、主に向き合うのは自分自身であることを忘れないようにしましょう。
3.病人から主の証し人に変えられる
主に「よくなりたいか」と問われたとき、彼は「癒やされたい」という自分の求めに気付かなければなりませんでした。彼の体や家族、周囲の状況がどうであっても、神から与えられた人生の当事者として立ち上がらなければならなかったのです。私たちも彼と同じような病人の精神状態から解放されましょう。病人のメンタリティーから、主の証し人に造り替えていただきましょう。そして、主のしもべとしての夢とビジョンを持って立ち上がりましょう。
聖書は、あなたのために書かれているのです。イエス様はすべてご存じです。あなたにも「よくなりたいのか」と言われています。単なる癒やしではなく、信仰を持って「止まった時を動かしてください。自分自身が立ち上がることができますように」と祈りましょう。
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