戦後の廃墟の中から立ち上がった菊栄は、焼けた木材を運び出し、土地をならし、畑を耕し、公孫樹(いちょう)の木の下で煮炊きをして、一人二人と園に戻ってきた子どもたちを守っていきました。なんとか日常を取り戻そうと焼け跡時代を懸命に子どもたちと生き抜いていきました。すでに菊栄の齢は80歳になっておりました。復員して来た菊栄の長男義材が菊栄に言いました。「その体ではとうてい無理です。齢もいったし、高知博愛園をやめたらどうですか」と。菊栄は敗戦時の緊急事態の中で自分が園母をやめたら博愛園がどうなるか、現場の仕事が菊栄の心をとらえて離さないのでした。しかし、自分の齢のことを考えるようにという長男の言葉が「もう一度高知博愛園を」と復興を願っていた菊栄の胸を突くのでした。そして菊栄は昭和22年の3月末で退職することを決意したのでした。
菊栄の後継者として高知慈善協会では後任探しを始めました。神様は誠に不思議な方法で一人の若いはつらつとした女性を菊栄の後任として選んでおられたのでした。その人は武田紀(とし)といって、子どもの頃から親のない子と暮らしたい、そういう仕事をしたいと夢見てきたという人でした。菊栄の実子千代との出会いを通して武田紀は博愛園での働きを即座に「はいッ。ありがとうございます。私でよければ仕事させていただきます。よろしくお願い申し上げます」と答えたのでした。武田紀は敬虔なキリスト教信者であったのでした。そして、この人が菊栄の後任としてそれから43年間もの長い間、博愛園の園長として仕えていきました。
紀が最初、菊栄の面接を受けることになったとき、コチコチに緊張したようです。その時に菊栄が言った言葉が興味深い言葉です。「この仕事はよほどのバカかアホウか愚か者でなければできません」と言ったのです。それを聞いた途端、紀の緊張が一気にほぐれ、「はいッ。ありがとうございます。私はまことに、そのとおりの人間でございます」と答えました。すると菊栄は毅然(きぜん)として言葉を続けました。「ただし、ほんとうのバカやアホウや愚か者にできる仕事ではありません」と。この菊栄の言葉は実に意味の深い言葉ではありませんか。ここにも菊栄の心意気を感じさせられます。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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