岡上菊栄について書き始めたときはこれほど長い連載になるとは思いませんでしたが、『岡上菊栄の生涯』(武井優著)を読み直せば直すほど書き留めておきたいという箇所が出てきてしまいます。菊栄の夫栄吾は小学校の教師・校長を歴任しながら、菊栄の働きの最良の理解者でありました。しかし、その夫は大正13年に享年56歳で肺炎のため亡くなりました。菊栄の祈りの姿が目立つようになったのはその頃からではないかと武井優は考えています。博愛園の園庭の隅に繁っていた公孫樹(いちょう)の大木の下で、ときどき頭を垂れて一心に掌(たなごころ)を合わせている菊栄が目撃されています。
菊栄は隠れキリシタンであった父岡上樹庵の勧めで、日本聖公会高知聖パウロ教会で4歳の時に洗礼を受けています。過日、高知市の丹中山(たんちやま)という所にある岡上菊栄の墓を見つけたとき、その墓石には十字架の印がはっきりと刻んでありました。そして、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)の聖書のみことばが墓碑として刻まれていることを確認いたしました。
菊栄の心の中ではキリスト信仰が深く入っていたと思われますが、それを博愛園の中で表だって口にすることはなかったようです。園児の一人が後に次のように証言しています。「食事をするときには、いただきます、ご馳走さまと口に出してあいさつしますが、そのとき祈ったりしたことはない。おばあちゃんが信仰的な話をしたり、習慣を持ち込むなどということはいっさいありませんでした。日曜になると教会へつれて行ってくれました、それはほんとうにたまにの話。教会へ行ってきなさい、と僕らに献金用のお金を一銭くれましたが、帰ったときには必ず、どんな話を聞きましたかと問われる。その報告がなかなかたいへん。全員が一同に行くことはなく、数人が一銭ずつもらって行きました」と証言しています。
菊栄自身が日曜礼拝に出るということはめったになかったと推測できます。菊栄が現場を離れるにはあまりにも大きな責任を負っていて、それが許されなかったのでしょう。しかし、彼女の育てた橋本愛子や、自身の子どもの千代がシスターになったりしたことから推察すると、菊栄の心の中にあったものがイエス・キリストへの確かな信仰であったことを疑うことはできません。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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