サエが退園してから数年たって、菊栄は棄児を育て始めました。その子は鏡川の橋の下で保護されたので、菊栄は「橋本愛子」と名付けました。愛子を育て上げた菊栄は、愛子が退園するときに、当時高知で女学会を開校していたアンニー・ダウド宣教師のところに入学をお願いに行きました。その時ダウドは、月謝は必要ないからと言って入学を許可してくれたのです。それから愛子は高知女学会の「なでしこ寮」で生活することとなりました。ダウドは愛子の品格に深い印象を受けたようです。
その後、愛子は神戸の松陰女学校宣教師のメイドとなりました。しばらくして彼女は「修道院に入りたい」という願いを持つようになり、昭和13年の秋、東京にあった聖公会の修女会に入会しています。愛子が16、17歳の時のことです。その頃、愛子は日々の出来事を細々と手紙につづって、菊栄に送ってきておりました。その中には「結核患者の方をお見舞いいたしました」とか「〇〇病院へ慰問に行きました」ということが書かれていたのでした。そのような手紙を読むたびに、菊栄は憤慨して心を痛めていたようです。
「こんな若い娘をどうして結核患者の慰問などに行かせるのか。私にはさっぱり理解できない。行かせてなるものか。見ててごらん、いまに愛子は感染される。結核になって帰って来る。ほんとうに、なんで行かせるのだろう・・・」と心配していたのです。そして菊栄の心配は的中しました。愛子は結核にかかり、病状がかなり進んで菊栄のもとに帰ってきました。
菊栄は愛子を自分の部屋で寝かせ、愛子の食事や洗濯に気を配り、懸命に看護に努めました。しかし、病状が悪化し武田病院に入院。手厚い菊栄の看護もむなしく、愛子は昭和18年11月15日に息を引き取りました。享年21歳でした。菊栄は親しい人たちに次のようにもらしています。「わが子を亡くした親の気持ちとはこのようなものでしょうか。幸い、私は自分の子を亡くした経験がないので、こんなにも落胆するものか・・・。寂しくて仕方がありません」と。
愛子の遺骨は、後に菊栄の墓の中で一緒に眠ることになりました。現在、丹中山にある菊栄の墓碑の正面には「孤児橋本愛子を抱いて、おばあちゃんはここに眠る」とあり、側面には「一粒の麦地に落ちて死なずばただ一つにてあらん、もし死ねば多くの実を結ぶべし」と刻まれています。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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