さまざまな家庭の事情で心身に傷を負った子どもたちすべてに、菊栄は「彼らの魂を、肉体を成長させなくてはなりません」という使命を帯びて博愛園での働きを進めて行かれました。
5歳の音吉の身の上も悲惨なものでありました。音吉がまだ乳飲み子であったときに父親が戦死しました。天皇陛下から御下賜金(ごかしきん)が届いたのですが、金銭に執着する姑によって音吉の母親は無理やり追い出されてしまったのです。家には音吉と祖母の2人だけとなりました。音吉が歩き始めてからお腹いっぱいご飯を食べさせてもらったことはなく、毎日道端に落ちている馬糞拾いをさせられました。
空腹で立つのがやっとだったある日、音吉は道に倒れてしまったのでした。村の巡査が発見しました。音吉が祖母に引かれて博愛園に入園してきたときは、栄養失調でヨタヨタしてボロを身にまとっていたのでした。
音吉は強情でした。これ以上ひねくれようもないというほど素直さに欠けていたようです。7歳になり小学校に通うようになると、学校の先生から「手に負えません。学校に来られては、ほかの生徒のために悪いので来させないようにしてください」と注意される始末でした。困り果てた菊栄は、日記に次のように書いています。「私は真剣にいろいろ方法を考えて、勉強机の上に花を活けたり、美しい額を飾ったり、一人で静かにいる時間を多くしたり、しっとり落ち着いて話したりしました」
そうしているうちに、音吉はだんだん笑うようになり、子どもらしさを取り戻してきたのです。学校の先生からも「近頃は大変おとなしく、良い子になりました」と褒められるようになっていきました。
音吉ののちの人生について、菊栄が次のように書き残しています。「(音吉は)小学校を終えると樽谷の職人となり、二十歳で独立して母を迎え、いまでは大阪でそれはそれは孝行しています。私が病気になりますと、大阪から日帰りで見舞いに来てくれます。高島屋の奈良漬を入れる樽を作っているものですから、いつも奈良漬を持って来ます。自分の収入の金高の出納帳をもって来て見せ、『おばあちゃん、このぐらいお金がありますから、私のできることなら何でもします。有馬の温泉へでも行きましょう』と熱心に申すのでございます」と。
イエス・キリストのお姿が菊栄を通して伝わってくるような気がしてならないのは私だけでしょうか。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
◇