花柳界に身を投ずることを友人の強い反対によってやめることにした菊栄は、小学校の教員を目指すようになりました。当時小学校教員は常に不足していて、学力試験で教員資格を取ることができていました。教員募集の広告が新聞に記載されていて、頻繁に公募されていたので、菊栄は検定試験を受けるために、毎日顔も洗わず髪も梳(す)かず、必死で勉強したのでした。そして、いよいよ受験というその前日、県庁に願書を提出しに行きました。そこで予期せぬことに出くわしました。
なんと受験料が50銭必要だったのです。しかもその場で支払わなければなりませんでした。菊栄は初めてそのことを知って驚きました。彼女は25銭しか手持ちがなかったのです。菊栄はとっさに県庁の学務課長に会わせてほしいとお願いしました。すると受付の女性はその勢いに押されて菊栄を学務課長、依岡氏に案内しました。
そこで菊栄は検定試験をどうしても受けさせてほしいということ、そして、もし合格した際には借りを倍にしてお返しします、と約束してお願いをしたのです。しかし学務課長は申し出にあぜんとして、せっかくだけどそれはできない、という旨のことを言おうとしたときに、菊栄はこれまでの窮状を説明し、この検定試験に合格しなければ生きていく道がないのだと訴えて、懇願しました。菊栄の意気込みに感激した学務課長は、ついに受験を了承しました。
そして明治22年11月26日に10倍の競争率を制して菊栄は見事合格しました。教員資格を得た菊栄は、すぐに裁縫の賃仕事をもらってきて学務課長にお返しするお金を何とか工面しました。そして、急いで県庁の学務課長のところへお金を持っていったところ、課長はいったんそれを受け取り、そして「このお金は私からのお祝いじゃ。いろいろ金もいることじゃろう。準備金としてあらためて君に進呈しよう」と言って菊栄にそのお金を授けたのでした。
菊栄の伝記記者は次のように記しています。「危機一髪のところで人生の固い扉を押し開くことができた。この時の幸運を菊栄は依岡課長への感謝と共に終生胸に刻むことになる」と。菊栄という女性には何事もすぐには諦めず、必ず道があるはずだと信じて努力を惜しまず、前に向かっていく覇気があったと感じます。そして、また彼女の背後に神の御手があったに違いないと思わされるのです。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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