山北村の叔父の所で農業の手伝いをして過ごしていた菊栄は、心の中では学問をしたいという気持ちが湧いてくるのを止めることができませんでした。菊栄が小学校に在籍したのは上街小学校と正光小学校を合わせた3年間だけでした。友達が登校するのを横目に見ながら叔父の家の仕事を手伝わねばならなかった菊栄は、未来を閉ざされたみじめな思いに駆り立てられていきました。
どうしても向学心を抑えきることができず、ある時ついに意を決して叔父に気持ちを打ち明けて高知で学問を修めたいことを伝えました。ところが叔父は絶対に許してくれません。それなら仕方がないと、菊栄は肚をくくり叔父の家を出ることにしたのでした。生活のめどがまったく立たないまま、婦喜という母親代わりに何かと助けてくれていた婦人と共に「自立」に向かって人生の第一歩を歩き始めたのでした。菊栄16歳の春のことです。
経済的めどは何もないまま、菊栄と婦喜は現在の高知市菜園場に家を借り、暮らし始めました。しかも当時は女子教育のための学校がなく、貧乏暮らしが続く中で、私塾のような所へ通いはじめます。菊栄は漢字なら多少なりとも勉強していたけれど、手つかずのままにしておいた「算術」を誰か教えてくれる人はいないものかと先生を探していたときに、友達のお兄さんがその専門だということを聞きつけました。
さっそく菊栄は頼みに行きました。ところが、教える時間はない、と言って相手にされませんでした。菊栄は「ほんなら、いつやったら時間がございますろうか」と食い下がりました。「時間か。フーム。まぁ夜中の1時か2時かぐらいなら空かぁやね。そのころやったら、ワシもゆっくりしゆう。マッ、そんなとこやき・・・」と体よく断った理由を、菊栄は真面目にとってしまったのです。
そして、その深夜、自宅から2キロあまりある鷹匠町にあったその兄さんの家まで、夜風をきって一人提灯をさげて訪ねて行ったのです。門を叩いて待っていると、「誰ぜよ、こんな夜中に」と声がして門が開きました。算術を習いにまいりました、と言う菊栄にびっくり仰天して肝を潰した兄さんは、その場で昼間に教えることを約束したというのです。
菊栄はそれから7年間もの間「算術」を学んでいます。「たたきなさい。そうすれば開かれます」というイエス様のお言葉を思い出します。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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