岡上菊栄(おかのうえ・きくえ)の幼少期は受難続きでありました。9歳年上の兄赦太郎が明治4年1月に14歳で疫痢にかかって急死しました。父樹庵と母乙女は赦太郎の霊を慰めるために、薊野にあった墓に日参しておりました。雨の日も風の日も墓参をしていたために、父樹庵が風邪をひいてしまいました。それがもとで半年ほどたって父親があっけなく死んでしまったのです。
菊栄は5歳にして早々と兄と父を亡くしてしまったのです。そのため菊栄は嘆き悲しみ、大泣きに泣き続けたのでした。なかなか悲しみから抜け出せない菊栄を見て、母乙女は厳しく菊栄をたしなめて、「5歳にもなっているというのに、・・・情けないではないか。おまえはもっと肝(はら)というものを作らねばならん。何事にも肝を据えてみよ」と厳しく教えたといわれています。菊栄の人生で家族と一緒に暮らした期間はほんの数年でありました。
一家の大黒柱を失った岡上家は、山北村に住む樹庵の兄、藤田篤治を頼らねばならなくなりました。そこで菊栄は母乙女と離れて叔父のところで暮らすことになりました。母と離れて暮らすことなど考えてもみなかった菊栄はとても動揺したのですが、それでも従う他ありませんでした。納得のいかない菊栄に対して、母乙女は「こちらへもどれるようにしてあげるから」と言って説得しました。ところがこの引っ越しが母と子の地上での最後の別れになってしまったのです。明治8年、菊栄9歳の時、母乙女が46歳で他界してしまったのです。約5年の間に両親と兄を失ってしまったのです。
叔父の家で暮らすことになった菊栄は、朝4時から下働きの男女に交じって田畑へ出て、稲作やミカン栽培を手伝うことになりました。一人前の大人と同じように働かされました。食事は粗末な物で、常に菊栄は恐ろしいほどの空腹感に襲われていたようです。長い一日の労働が終わった後で叔父の肩や腰を揉まされ、なかなか寝かせてはくれません。肩もみが終わると、木太刀の打ち込みを日課とさせられていて、菊栄は毎晩、木の下で300回から500回の素振りをしたといいます。
菊栄は次第に孤立感と絶望感にさいなまれるようになっていきました。そして毎夜、母の名を呼んだといいます。後に多くの身寄りのない子どもたちの母となるために、菊栄の知らない間に苦悩のるつぼの中で天の父の訓練が着々と行われていたのでしょうね。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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