向学心に燃えていた菊栄は正式な教育を受けたいと思っていましたが、明治20年ごろの高知では、女子の中等教育機関に当たる学校がありませんでした。ところがちょうどその頃、米国の宣教師アンニー・ダウドが校長となってキリスト教の女学校(現在の清和学園)が開校されることになったのです。そして学生を募集していたのです。
このことを叔父の篤治に伝えて保証人になってほしいという話をすると、叔父は「なぜそんな勝手な真似をするか!」と激怒した揚げ句、菊栄を勘当すると宣言したのです。しかし、それでも菊栄は女学校への進学を諦めませんでした。入学試験を受けて菊栄は見事に合格したのです。菊栄は目の前に日の光が射し込んでくるような喜びを感じたようです。それもこの女学校がキリスト教の女学校であることに、彼女の心は弾んだのでありました。
菊栄の父岡上樹庵が敬虔な隠れキリシタンであったことを、菊栄は幼いころから知っていました。樹庵は天井裏に秘密の礼拝堂を持っていて、キリストを礼拝していたのでした。そして菊栄には、父から渡されて大切にしていた小箱がありました。その小箱を菊栄はずっと後になるまで開けることがありませんでしたが、ある時、思い切って開けてみました。するとそこには、表紙を錦織で装丁した聖書と、キリスト教を学ぶための公会問答集になっている初心者向けの教本が収められていたのです。そのような父の影響があり、ダウド宣教師との出会いがあって、次第に菊栄はキリスト教に傾いていったと思われます。
喜び勇んで女学校の生活を始めた菊栄でありましたが、なにかと助けてくれていた婦喜が病気になり、学校から帰ってから一人で賃仕事をして、婦喜の面倒を見ながら、授業料を捻出して生活することは、さすがの菊栄にも無理な状況になって追い込まれていきました。そして、憧れて入学した高知英和女学校を、明治22年4月、わずか7カ月でやめてしまわざるを得なくなったのです。
当時は、教育を受けることがこれほど厳しい時代だったのですね。現代は教育の機会にあふれていますが、菊栄のように向学心に燃えている人がどれくらいいるでしょうか。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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