人生の危機一髪のところで教員試験に合格した菊栄は、それから高知県下の小学校を次々と教えていくことになりました。菊栄はさまざまな小学校で教えていく間に結婚をし、子どもを5人産んでいます。出産をしてはすぐに仕事に復帰するということを繰り返しながら、菊栄はベテラン教師となっていきました。
菊栄が結婚した相手は、小学校の校長をしていた安岡栄吾という素封家の次男でありました。両親を若くして亡くした菊栄の岡上家に婿養子として入籍しました。仕事と家事育児を両立できたのは、婦喜が常に菊栄を支えていたからだと言ってよいでしょう。
菊栄が安芸郡の小学校(現在の安芸市立第一小学校)に勤め始めたとき、家事や家の仕事の手伝いのために学校に来れない子どもたちが大勢いることを知り、菊栄は夜学を始めました。多くの反対をものともせず、貧しい家の子どもたちに読み書きソロバンを教えていきました。また、学校を終えた後、夕方の時間に子どもたちの家々を訪ねて行き、子どもを学校に送り出すように説得に回っていきました。
菊栄は自分自身が子どもの頃、学校に行く子どもたちを横目に家の仕事の手伝いをさせられていたときの絶望的な気持ちを忘れることができず、なんとしても一人でも多くの貧しい家庭の子どもたちが読み書きソロバンだけは覚えて、人生に希望を見いだしてほしいという強い願いから、各家庭を訪問して行ったのでした。
こうして家庭訪問をしていたある家で、赤ん坊をあやしている7歳の春(仮名)がいました。春も登校できない子どもの一人でした。春を見ていると菊栄は、学校に行くことができなかった自分の子どもの頃を思い出して心が痛むのでした。菊栄は春の父母に向かって、きっぱりと言いました。「春ちゃんが学校に来るのなら、赤ちゃんをつれて来てもいいです。赤ちゃんの面倒は私が見ます。春ちゃん、おいでなさいね」と。
このような努力が功を奏して、ぽつりぽつりと子どもたちが朝から学校に来るようになったのでした。春も赤ん坊をおぶって来たのでした。菊栄は授業中に赤ちゃんが泣くと、生徒たちに自習をさせながら、赤ん坊に自分のお乳を飲ませ、赤ちゃんを寝かせると何事もなかったかのように教壇に立ちました。
いつの間にか、菊栄のこのような教育姿勢が県下に広く知られることなり、思いがけない新しい道が開かれていったのでした。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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