岡上菊栄についてのエピソードは事欠かないほどありますが、今回は菊栄らしく時代を先取りしている姿がよく表れている出来事を記してみます。大正8年のこと、菊栄の実子の一人、千代がまだ小学校5年生の時のことです。夏休みを控えたある日の放課後、友達を誘って4人で鏡川に泳ぎに行ったのです。その時、友達の一人が川に流されて溺れそうになりました。幸い近くにいた大人たちに助けられて事なきを得ました。
ところが、このことが次の日の新聞に載ったのです。当時、女子の水泳は校則で禁止されていました。学校は前代未聞の不祥事に大騒ぎになり、4人の子どもたちは職員室へ呼び出されてこっぴどく叱られました。教室でも後ろに立たされました。4人は泣きながら謝罪し、園に帰ってからも千代は泣き続けていたのです。菊栄は事情を千代から聞いて、「そういうこともあろう」ぐらいに受け止めて、別に驚くふうでもないのです。ところが、他の子どもの親たちが慌てふためいて菊栄の所へ集まってきました。親たちは「なんというあきれたことをしてくれたんでしょう」と嘆き憤慨し、自責の念にとらわれていました。
そこで、菊栄は肚(はら)を決めて学校に行くことにしました。学校の職員室では教師の怒りが充満して、異様な熱気が漂っていました。教師たちは、子どもたちに聞かせた説教と同じことを親たちにも繰り返しました。3人の母たちが2度3度同じ謝罪の言葉を終えた頃、菊栄は教師たちに向かって切り出しました。
菊栄が教師たちに言ったことを要約すると、女子が水泳をしてはいけないということを誰が決めたのか、女子こそ水泳ができないと、もし子どもが溺れそうになったらすぐに助けることができないし、ただ泳げるだけでなく、もがき苦しんでいる子どもを助けるためには相当水泳が達者でなければならない。校則を破ったから悪いというのではなく、そんな校則を作っておく学校に問題がありゃしませんか、という話をしたのです。
母たちは腰を抜かさんばかりに驚き、教師たちはグーの音も出なかったといいます。菊栄の意見は理にかなったものでした。それで、なんと翌年から同校では校則を変え、女子の水泳を認めたといいます。すると他の学校でも校則を変えていったのだそうです。菊栄の時代を先取りした姿が見えてくるようなエピソードではありませんか。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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