高知慈善協会の育児事業博愛園が岡上菊栄の努力により軌道に乗り、安定期を迎えた大正7年より、事業を拡張することとなりました。これまでの育児事業に加えて、貧民救済事業及び老衰貧困者の救護事業も始まりました。このような事業も、監督責任を菊栄が担わされることとなりました。
菊栄はそれまでにも、園に訪ねてくるさまざまな人たちを温かく迎え入れて必要な助けを与えていました。来訪者には、退園した子どもたちやその親族、旧友、親戚というような以前から親しくしている人々もいましたが、なかには見ず知らずの人もいました。宿無しの旅芸人、無一文の放浪者、病気の親子、四国巡礼の途中で病気になった人などもいました。
そんな菊栄を頼ってか、行き倒れ、病人、縁者のない独居者、梅毒、精神錯乱、認知症といった人たちが新しく始まった事業に集まってきました。常時平均すれば5、6人はいたようです。育児の他にこのような人々のお世話もするようになっていきました。菊栄をよく知っている島田久という人が、一人の認知症の老人の世話をする菊栄について次のように証言しています。
「排泄物を壁にぬって汚したり、部屋中を散らかしたり、逃げ出す人もおり、おばあちゃんはテンテコ舞いさせられていました。火の扱い方が分からなくなっているので、放火しないように監督するだけでもたいへんなことです。結核の人もいました。子どもに感染(うつ)さないように、また子どもから老人へ感染させないようにと注意しなければならず、気が抜けない。子どもの養育にもひとかたならぬご苦労がありましたが、この老人の世話も並大抵のことではなかった。ですがおばあちゃんは平気な顔をしてどんなことにも心を尽くし、シャンシャンと動いていました」と。
こんなこともあったようです。貧しい身なりの年老いた女性が、身の上話をしている最中に咳込みました。菊栄は「おや、おまさんは風邪をひいちゅうね。そんなかっこうだと寒かろう。いかん、いかん。よろしかったらこれを着てください」と言って、その場で自分の着ている着物を脱ぎ、肌襦袢(はだじゅばん)を彼女に着せたのでした。菊栄は肌襦袢を2枚しか持っていなかったにもかかわらず、「何とかなる」と言ってあっけらかんとしているのでした。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
◇