太平洋戦争の末期、昭和20年7月4日に20機のB29が来襲し、高知市の主要地区が焼失してしまいました。いわゆる高知大空襲の日です。真夜中の11時半になって警戒警報が鳴り響きました。やがて間断なく焼夷弾が降ってきました。菊栄はすでに6月下旬から30人以上いた園児たちに疎開先を死に物狂いで探し、引き取ってもらいました。引き取ってもらえなかった学齢の高い子どもたちや事務員ら7人が博愛園の防空壕に入って身を寄せ合っていました。
しかし、高知市はあっという間に火の海となり、菊栄は防空壕を飛び出し、「鏡川学園へ行こう」と叫んで一行を鏡川の方へ退避させました。山内神社の仮設壕で空襲が終わるのを待っていたが、社殿も炎上したため、全員で鏡川を渡ることにしました。その頃には空襲も終わり、気が付くと明け方になっていました。子どもたちの手を引いて川を渡っていた菊栄はその時78歳となっていました。
とにかく地獄のような夜が終わって、気が付くと博愛園の全員が無事であったのです。子どもたちを守り抜いたという思いが菊栄の胸にあふれ、涙がこみ上げてきました。それから間もなく、高知博愛園の焼け跡の様子を見に行きました。あの家屋も美しい庭も一晩のうちに無残な姿になってしまって、子どもたちは絶句し、がくぜんとそこに立ちすくんだのでした。
このまま高知市に留まっていたら、いつまたB29が飛んでくるかもしれないし、戦争がいつまで続くかもしれないということで、菊栄は実子が嫁いで行った本山へ全員を連れて疎開することにしました。疎開先まで行くのは大変なことでしたが、やっとのことでたどり着いたその場所は静かな安全地帯でありました。しかし、菊栄は博愛園のことが気にかかり、園児たちが博愛園に戻ってきたときにおばあちゃんがいなかったら、どんなに落胆するだろうか、と思うと矢も楯もたまらなくなり、結局終戦を待たずに高知に戻っていきました。
8月15日に終戦を迎え、菊栄は廃墟と化した高知博愛園の跡地に立って、事務員の一人に言いました。「とらさんよ。高知博愛園は子どもが成長する所であり、また子どもの故里でもあります。子どもたちのねぐらを失くしてしまうことはできません。皆が帰ってこれるように、園を作ろうじゃないですか」。そう言って菊栄の戦後が廃墟からスタートしたのでした。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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