『聖書とがん』の出版は、筆者の大きな夢である。「人類は、なぜ永遠に生きられないのか? 生きて120年。なぜ、イブは蛇の誘惑に負けたのか!? アダムは930歳、ノアは950歳、アブラハムは175歳、モーセの時代から120歳」と、私は講義、講演で冗談っぽく、さりげなく語る。
島根県大社町の鵜鷺(うさぎ)小学校卒業式での来賓あいさつ、「少年よ、大志を抱け」(1887年札幌農学校のクラーク博士の言葉)を強烈に覚えている。私の人生の起点であるといっても過言でなかろう。その後、京都での浪人時代に出会った英語の教師でもあり、牧師でもあった先生(東京大学法学部の学生時代、南原繁に学ばれた)から、人生の機軸となる南原繁(1889〜1974)との間接的な出会いが与えられた。そして、内村鑑三(1861〜1930)、新渡戸稲造(1862〜1933)、矢内原忠雄(1893〜1961)へ導かれた。英文で書かれた『代表的日本人』(内村鑑三)と『武士道』(新渡戸稲造)は、若き日からの座右の書である。悩める時に、いかに勇気づけ、励まされたことか。「1人、部屋で静かに1時間読書する習慣をつけよ!」と教わった。私は19歳の時から、内村鑑三、新渡戸稲造、南原繁、矢内原忠雄の全集を読んだものである。
医師になり、すぐ癌研究会癌研究所の病理部に入った。そこで、大きな出会いに遭遇したのであった。病理学者であり、当時の癌研究所所長であった菅野晴夫先生(1925〜2016)は、南原繁が東大総長時代の東大医学部の学生であり、菅野先生から南原繁の風貌、人となりを直接伺うことができた。南原繁にはますます深入りし、さらに、菅野先生の恩師である日本国の誇る病理学者、吉田富三(1903〜73)との出会いにつながった。吉田富三は日本国を代表するがん病理学者であり、菅野先生の下で2003年、生誕100周年記念事業を行う機会が与えられた。吉田富三の論文、著作を熟読し、これを機に関心が高まり、深く学んでいくことになった。必然的に「がん哲学」の提唱へと導かれた。さらに「陣営の外=がん哲学外来」へと展開した。
吉田富三は、「広くがんを知っている」「広く病気を知っている」「ガラスの向こうに患者を見ている」「自分のテーマを持って研究している」「生物学にも興味を持っている」、我が国の代表的ながん研究者として挙げることができる。「自分のオリジナルで流行をつくれ」といい、事に当たっては、考え抜いて日本の持つパワーを十分に発揮して大きな仕事を成し遂げた。「顕微鏡を、考える道具に使った最初の思想家」であり、その思想は「顕微鏡で見たがん細胞の映像から得た哲学」なのだと著書を読み、実感した。
吉田富三は、「人体の中で起こっていることは、社会と連動している」といい、「がん細胞に起こることは必ず人間社会にも起こる」と述べている。ここに、「がん哲学」の源流がある。「病理学=理論的根底」の懐の深さを感ずる。先人の精神を学んだことが、自分の専門以外のことであっても勇気を持って声に出し、行動できるという自信になり「がん哲学外来」ができたと思っている。
私は「科学としてのがん学」を学びながら、「がん学に哲学的の考え方を取り入れていく領域がある」との立場に立ち「がん哲学」を提唱した。病理学は顕微鏡をのぞきながら、大局観を持つことが求められる分野でもある。がん哲学者は、高度な専門知識(がん学)と幅広い教養(哲学)を兼ね備えている人物のことであり、視野狭窄(きょうさく)にならず、複眼の思考を持ち、教養を深め、時代を読む「具眼の士」である必要がある。「目的は高い理想に置き、それに到達する道は臨機応変に取るべし」(新渡戸稲造)の教訓が今に生きる。「最も必要なことは、常に志を忘れないよう心にかけて記憶することである」(新渡戸稲造)。
「がん哲学」とは、南原繁の「政治哲学」と、元癌研所長で東大教授であった吉田富三の「がん学」をドッキングさせたもので、「がん哲学=生物学の法則+人間学の法則」である。「風貌を見て、心まで診る=病理学」の時代的到来であろう。人間の「誕生と成長」でなく、「哀れとむなしさ」を起点とする病理学者は、「真理そのものに悲哀性がある」ことを学び「自ら悲哀をその性格とする人たらざるを得ない」(新渡戸稲造)。これが私の人生の原点であり、「エデンの園」の出来事により、さらに「聖書とがん」へと導かれていった。
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