医師とがん患者の対話の場として生まれた「がん哲学外来」。病院外では病気を抱える誰もが気軽に思いを分かち合える「メディカル・カフェ」として全国に広がり、メディアでも多数取り上げられるなど注目を集める。その「がん哲学外来」が今年10周年を迎えた。5月31日にはお茶の水クリスチャン・センター(東京都千代田区)で、提唱者・樋野興夫氏(順天堂大学医学部教授)の最新刊を祝う出版記念会が開かれ、樋野氏がその原点を語った。
樋野氏が「がん哲学」という言葉を考えたのは2000年ごろ。学生時代からその著作に親しんできた無教会派のクリスチャン、南原繁(元東京大学総長)の「政治哲学」と、日本のがん研究の先駆者として知られる吉田富三(元がん研究会所長)の「がん学」をドッキングさせた。がんの発生と成長に哲学的な意味を見いだし、生きることの根源的な意味を考えていく営みだ。04年には『がん哲学』を出版。現在は英語や中国語、韓国語にも翻訳されている。
その後、日本では05年にアスベストによる健康被害問題が浮上する(クボタショック)。樋野氏は同年、いち早く順天堂病院に「アスベスト・中皮腫外来」を開設した。樋野氏自身は病理学者であり、臨床医ではないため、それまで患者と直接接する機会は少なかったが、そこで90人近い患者を診ることになる。難しい病気を抱えた患者と対話する中で「がん哲学外来」の必要性を感じるようになったという。
樋野氏が「がん哲学外来」を実際にスタートするのは08年。その原点となったのが、吉田富三の次の言葉だった。
電子計算機時代だ、宇宙時代だと言ってみても、人間の身体の出来と、その心情の動きとは、昔も今も変わっていないのである。超近代的で合理的といわれる人でも、病気になって、自分の死を考えさせられるときになると、太古の人間に帰る。その医師に訴え、医師を見つめる目つきは、超近代的でも合理的でもなくなる。静かで、淋(さび)しく、哀れな、昔ながらの一個の人間に帰るのである。その時の救いは、頼りになる良医がそばにいてくれることである。
「最初は冗談のように始めた」と話す樋野氏。「5回だけ」と言って始めたが、その後も続き、がん患者からはまた会いたいと電話が来た。そして病院外にも呼ばれるようになり、この働きが世の中で必要とされていることに気付いた。「自分の意思でやったのではなく、人から背中を押されてやった」と言う。
スタートから1年でNPO法人「がん哲学外来」が設立(13年に一般社団法人化)。樋野氏自身はこれまで「がん哲学外来」を通して約3千人の患者や家族と接し、メディカル・カフェは現在、全国約140カ所に広がっている。
米国の医学大学やがんセンターでの勤務経験もある樋野氏は、「がん哲学外来」は日本で特に必要だと言う。「日本と米国のがん患者を比べたとき、日本人特有なものを感じた。病気は世界共通だが、国民性のようなものがある」
樋野氏が新しく出版したのは『大切な人ががんになったとき・・・ 生きる力を引き出す寄り添い方』(青春出版社)。「がん哲学外来」に関する書籍は幾つも出版されているが、本書は主にがん患者を持つ家族を対象とした内容だという。
この日は、がん患者の家族や友人を持つ人や、がんに関連した悩みを持つ人が多く参加し、樋野氏に直球の質問を投げ掛けた。
ある男性は10年前に高校生の息子を亡くしたが、妻がそれからがんの検診をまったく受けなくなってしまい、どうすべきかを尋ねた。社交的で明るかった友人ががんになり、引きこもりがちになってしまったという女性は、友人への接し方を聞いた。別の女性は、2年前にがんで父親を亡くした。人をよく笑わせていた父親だったが、末期がんであることを知ってからはまったく笑わなくなり、告知から8カ月で亡くなった。今でも父親にどうしてあげればよかったのか悩むと打ち明けた。
樋野氏は、がんで悩む患者やその家族、友人らが自由に語り合い、寄り添う場がもっと必要だと考えている。メディカル・カフェは、キリスト教会も含め全国さまざまな場所で開かれているが、さらに設置箇所を増やし、7千カ所で開設することを目指しているという。