いわゆる「対談集」である。しかし、ただの対談集ではない。「人」という同じ研究対象を持ちながら、それをまったく異なる視点から追究する希代の研究者たちが、互いの研究分野をクロスオーバーさせながら自由に語り尽くすというぜいたくな内容に仕上がっている。これはさながら「学術的異種格闘技」であり、アカデミック版「アベンジャーズ」である。
対談者は、京都大学総長にして理学博士、人類学者、霊長類学者である山極寿一(やまぎわ・じゅいち)氏と、同志社大学神学部教授にして良心学研究センター長、神学者、宗教学者である小原克博氏である。小原氏は筆者の恩師でもある(どうしても後者に肩入れしてしまうことは否めない)。
しかし正直に申し上げるなら、第1章「人類は『物語』を生み出した」はあまり面白くなかった。活字化されている以上に、実際は言葉を交わした両者であろう。それを読者に読みやすく編集したのが本書であることは容易に推察できる。しかし、それにしてもいきなり、「犬は祈るか」とか、ニホンザルやゴリラの生態と人間の能力を比較するなど、こちらが想定していたもの(恩師の著書だから、キリスト教的な内容だろうという思い込み)を完全に打ち破る内容からスタートしているのである。
最初はこういった複雑な思いを抱えながら、辛抱してページを繰っていたが、第2章の「暴力はなぜ生まれたか」に差し掛かったところから、俄然(がぜん)面白みが増してきた。山極氏が暴力の起源を「(集団における)共感能力の暴発」と表現するあたりから、本書の構造がつかめてきた。
例えば「暴力」という現象に対して、両者は「集団」という共通のキーワードを用いながら、異なった具体例を提示して見せる。山極氏は、集団間の対立を収めるニホンザルのおばあさんの話、狩猟採集民から農耕民族へと移行する中での変化などを織り交ぜながら、いわば「暴力」の起源とルーツを求め、時間をさかのぼっていくベクトルである。
一方、小原氏は、「暴力」が単に未発達の前人類史特有のものではなく、その後の人間の歴史の中に、殊に西洋史の中に、そして宗教間対立の中に、常に発生していることを指摘する。小原氏は、山極氏が詳(つまび)らかにした「暴力」のメカニズムを歴史的に検証させる事例を提示することで、さらに掘り下げてリアリティーを追求しているといえよう。
各章では、両者が自身の専門分野から意見を交わしたのち、相手の立場に自分を立たせ、テーマをもう一度考察するという作業を繰り返している。こうすることで、一般的にカテゴライズされた「研究分野」という目に見えない壁を取り壊し、互いが自由に行き来できる新しい学問的地平を切り開いているように筆者には思えた。
奇しくも山極氏は次のように述べている。
認知科学にしても宗教にしても、人々がいろんな形でつながり合えるのはなぜかというと、目に見えないものを信じ、それによってつながり合っているという幻想を人々が信じていたからなんですね。だからこそ、生まれも育ちも全く違う人たちが、つながれたわけです。しかし、科学技術偏重の時代になって、それがいつの間にか壊れつつある。(51ページ)
だから本書のような対談を通じて、再び「つながり合える」ことを示そうとしたのではないか。筆者はそう得心が行ったのである。
山極氏は理系、小原氏は文系が専門分野である。「異なる専門性をぶつけ合うだけでは、話がかみ合わないのでは?」と考えてしまうことは決して否めない。しかし本書の対談が具体的に提示しているように、そもそも「文系・理系」という区別そのものが、「科学技術偏重の時代」の産物でしかないということである。
本書によれば、幻想は決して否定的な用語ではない。人類が相手を認識し、理解するために必要な概念として描かれている。このような捉え方ができるもの、「学術的異種格闘技」のなせる業ではないだろうか。
互いに理解しえない、接点などない、と物事を細分化させ孤立化させていく現代において、実は異なる分野だからこそ、より深く、斬新な視点で分かり合えるのだ、と語ることの意義は大きい。IT技術の飛躍的な進歩や、AIの社会への適用を可能にしつつある「科学技術偏重の時代」だからこそ必要な「新たな研究分野」ではないだろうか。
さらに言えば、時代を先取りしたような最新用語(AI、VRなど)が頻繁に人々の口から飛び交う現代において、まるで天から授かったまったく新しい概念であるかのようにそれらを受け止めることに警鐘を鳴らしているともいえよう。どうしても専門分野を追究していくことで、人の思考は専門性が高まると同時に狭く、そして細分化されていく。だがそれだけでは、人はもはや「ヒト」ではなくなってしまう。インプラント技術の進歩が手や足という身体のメカニズムを解明し、AI分野の発展が知能や意識という内面性を開示しつつある。さらにDNA研究などで、命そのものが「研究対象」として浸食されている現代。既存の研究分野を究めることも大切だが、このようなクロスオーバー的な視点を抱くことで、人が「人ならざる者」へ変質してしまうことを自制することができるのではないだろうか。
本書は、筆者にとって鏡のような役割を果たしてくれた。自分が「自分」として、神から生を頂いている存在であることを客観的な立場から垣間見せてくれた気がする。宗教家として、信仰者としてどうしても卑近で既存の「真理」を語る機会が多い者だからこそ、それを新たな視点で考察する機会を得られたことは、存外の幸せであった。ぜひ多くの方に本書を手にしてもらいたい。特にキリスト者であるなら、そのカタルシスは倍増されるだろう。
■ 山極寿一、小原克博著『人類の起源、宗教の誕生―ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』(平凡社 / 平凡社新書、2019年5月)
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