2008年、とんでもない企画が発表された。それは、アメリカンコミックのヒーローたちが一堂に会し、事件を解決するという前代未聞のシリーズが始まるというものだった。名付けて「マーベル・シネマティック・ユニバース」(MCU)。
この企画がどうして「とんでもない」もので「前代未聞」かというと、第一に取り上げるヒーローがどうみても二番手、三番手であって、決して知名度が高くないということ。そんなマイナーなヒーローたちをかき集めても、一部のコアなファンしか取り込めないのではないか、そんな危惧を抱かせた。
第二に、MCUは10年計画で20本以上もの作品を送り出すという。これは単純に計算すると年2本となる。確実なヒットの法則などあり得ないハリウッド業界において、こんな途方もない計画がはたして実現するのだろうか、と誰もがいぶかしく思った。他のスーパーヒーロー物のように、続編を重ねるごとにクオリティーが下がってしまい、頓挫してしまうのではないか――。
今から思うとこれらの懸念は、完全に杞憂(きゆう)であった。今や世界興業のベスト10の半分以上はMCU作品で占められており、本作「アベンジャーズ / エンドゲーム」に至っては、興行収益の最短達成記録を塗り替えつつ、現在も大ヒット上映中である。
私も公開日に劇場に足を運んだ。そしてその圧倒的なクオリティーの高さと、アクション映画にしては異例の上映時間(181分)を存分に堪能させてもらった。さらに1回では飽き足らず、2回、3回と足を運び、いろんな発見や新たな感動ポイントを見いだしている。おそらく2019年上半期のベスト作品はこれだろう。
同時に、本作およびMCU作品群で描かれている「ヒーロー」の本質が、実は見事にキリスト教世界とこの世の中の英雄像とを橋渡ししていることに気付かされた。今回はここに力点を置いて、「キリスト者だからこそ分かる」ヒーロー映画の楽しみ方を描き出してみたいと思う。
このMCUシリーズは、ちまたでは「アイアンマン」から始まったとされている。その後、「インクレディブル・ハルク」「マイティ・ソー」、そして「キャプテン・アメリカ」などの作品が次々と作られ、「アイアンマン」を除いては当時あまりヒットしていないものの、一定数のファンを獲得するようになる。当初危惧されていたように、やはり一部のコアなファンが盛り上がっているだけ、という構図が生まれつつあったといえよう。
しかし、2012年の「アベンジャーズ」によって状況は一転する。これは、アイアンマンやハルク、ソー、キャプテン・アメリカというヒーローそろい踏みのお祭り映画であった。だがこの作品をじっくりと観るなら、実はもっと深い根源的な問いを提示していたことが分かる。それは「ヒーローは誰にとって必要なのか」という問いである。
ご存じのように、米国は種々雑多な「ヒーローたち」が存在している。それはまるでキリスト教界の中に大小さまざまな教派があり、彼らが異なる世界で巧みに住み分けている状況を示唆しているようなものである。
ちなみに日本のヒーローものは、例えばウルトラマンといえば、そのシリーズが何十年と続き、いわゆるオリジナルの亜種が時代性をまといながら歴史を紡ぎ出すというスタイルである。しかし米国の場合、各々のヒーローが完全に独立しており、クロスオーバーさせることは煩雑さを伴わざるを得ない。
MCUシリーズがここまで継続し、発展してきた要因の一つに、「アベンジャーズ」以来常に問い続けてきた「ヒーローは誰にとって必要なのか」という問いを、深化させてきたことが挙げられる。
そして「アベンジャーズ」シリーズの前作「インフィニティ・ウォー」において、衝撃的な展開を見せることで、さらにそれを先鋭化させ、そして本作「エンドゲーム」へとなだれ込ませているのである。それはまるでジェットコースターに乗せられ、これでもかと左右に揺り動かされているようなものである。そのような衝撃を与える敵役、それが本作にも登場するサノスというキャラクターである。
サノスは単に平穏な世界を破壊したいのではない。全宇宙的に巻き起こっている食糧難、戦争、そして貧困の問題がやがて宇宙全体を覆い尽くすことを憂い、全生命の半分を人為的に消し去ってしまうことで、これらの問題を強引に解決しようともくろむ存在なのである。これはおそらく、米国の現大統領ドナルド・トランプ氏のメタファーとしても機能しているだろう。いずれにせよ、バットマンに登場するジョーカーのような愉快犯ではなく、(賛否あることは承知の上で)固い信念と理念に裏打ちされた「最大の敵」として、ヒーローたちの前に立ちはだかるのである。
前作では、サノスの信念と理念が成就し物語は終わる。そしてヒーローたちは、敗北にまみれながら余生を過ごすことを余儀なくされてしまう。事実、食糧難や戦争などの危機的状況から地球は救われた(かのよう)である。では、サノスは正しかったのか? もしそうなら、彼こそが「真のヒーロー」ということになってしまう。そしてこれまで築き上げてきた「アベンジャーズ」のヒーロー物語は、まちがっていたことになってしまう。
本作「エンドゲーム」で最終的に描かれる「ヒーロー像」は、福音的に描かれるイエス・キリストの姿を敷衍(ふえん)したものと受け止めることもできる。一見、悪に負けてしまったかのような状態に陥り、そこから不死鳥のごとくよみがえるヒーローたちの姿は、まさにキリストの「復活」である。
そして何よりもサノスが提示する理念は、現代における私たちの世界で「仕方ない」「そうせざるを得ない」として、必要悪を認めようとする風潮と軌を一にしているといえよう。いつしか人々は「罪」という概念すら忘れ、「それが人間の社会では当たり前なのだから」とうそぶくようになっていく。そしてそこに誤りがあることすら忘れ、目の前の事柄に一喜一憂するようになっていく。
しかし本作は、サノスにやられてしまった世界、すなわち私たちが安きに流れそうになる風潮に対して、はっきりとNOを突き付ける。「そうではない。ヒーローは確かに存在するし、彼らは私たちにとって必要不可欠なのだ」と。多くのMCUファンが「あのシーン」で号泣しているとしたら、それは私たちがヒーローの本質を本能的に理解していることの証拠である。
ヒーローとは、人を殺(あや)め、排除し、分断を図ることで物事を整理しようとする存在ではない。むしろ徹底して次のような聖書の言葉を実現するために行動しようとする者たちのことである。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)
現実社会では、これが実現する姿を見ることは困難かもしれない。しかしだからこそ、日々その実現のために汗をかき、必死に自らの人生、時間を用いる存在こそ、ヒーローである。
キリスト者が本作を鑑賞するなら、おそらく彼らヒーローたちの葛藤とそれでも前に進もうと決断するその原動力に胸が熱くなるに違いない。
極端なことを言うなら、前作「インフィニティ-・ウォー」だけを観て本作を観に行ってもいいと私は思う。すべてを理解して、細かいことまで把握して・・・とよく日本人は考えるが、それはMCUビギナーには難しい。だからこそ、最新二部作のみを観て、ぜひ皆で「キリスト的ヒーロー像」について語り合ってもらいたい!
■ 映画「アベンジャーズ / エンドゲーム」予告編
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