カンヌ、ベルリン、ベナチアに次いで権威ある国際映画祭とされるスペインのサンセバスチャン国際映画祭をはじめ、計4つの国際映画祭で受賞を果たした「僕はイエス様が嫌い」。すでにフランス、スペイン、韓国での劇場公開が決まっており、日本でもいよいよ5月31日から、TOHOシネマズ日比谷やTOHOシネマズららぽーと横浜、川崎チネチッタなどで公開される。
この話題作のメガホンを取ったのは、23歳の新鋭、奥山大史監督。76分という長編作品にもかかわらず、撮影は青山学院大学在学中にわずか7日間で行い、監督だけでなく、脚本から撮影、編集までを一手に手掛けた。
クリスチャンであれば、「僕はイエス様が嫌い」というタイトルに一瞬ドキッとするかもしれないが、奥山監督自身は代々プロテスタントの家系出身。東京から雪深い地方のミッション系小学校に転校してきた少年ユラをめぐる物語は、幼稚園から大学までを同じくミッション系の青山学院で過ごしてきた奥山監督自身の実体験を重ねたストーリーでもある。カトリック色が色濃いサンセバスチャン国際映画祭で高評価を得たことは、奥山監督自身にとっても大きな自信になったという。日本公開を前に、奥山監督に話を伺った。
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――まず、4つの国際映画祭で受賞した感想を。
一番印象に残っているのが、最初に受賞したサンセバスチャン国際映画祭です。すごくクリスチャンが多い町で、それを肌で感じました。会場からも12メートルのキリスト像が見えて、最初は「ここでこの映画を上映したら、僕はどうなるんだろう」という思いもありました。しかしそこで、最優秀新人監督賞を史上最年少(当時22歳)で頂くことができ、またいろいろな方々に声を掛けてもらって、すごく自信になりました。やはりクリスチャンが多い国で認められたというのはうれしかったです。
一方、マカオ国際映画祭では反応が少し違いました。マカオも同じく、熱心なクリスチャンが一定数いて、キリスト教の映画だから観に来たという人もいましたが、映画を観終わっても、少し悩んでいるという雰囲気でした。サンセバスチャンの人たちからは「クリスチャンだから分かることを描いてくれてうれしかった」と言われたのに対し、マカオでは「あなたは結局どっちなの?」と聞いてくる人もいて、それが新鮮な体験でした。
――日本語のタイトルと異なり、英語のタイトルは「JESUS」ですが、その理由は?
「海外はクリスチャンが多いので、怖がって避けたんですか」という質問を受けることもありますが、そういう意図はありません。そもそも「僕はイエス様が嫌い」という言葉が、そんなに批判される言葉ではないと僕自身は捉えていますので、決して「逃げ」で選んだわけではないのです。
日本ですと、映画のタイトルは一つのテーマを述べるような感じで、わりと文章っぽくなりがちだと思います。しかし海外では、どちらかというと一つの単語を選び、それと監督との関係性を探って、そこからテーマを考えてもらう。この映画においても、それぞれにあったタイトルを選んだということです。
――映画ジャーナリストの中山治美氏が、次のように評価しています。
何より描こうとしているテーマは、マーティン・スコセッシ監督が「沈黙―Silence―」で挑んだテーマと同じ “神の沈黙”。巨匠が歳月と大金をかけたのに対し、新人監督が子どもを起用して軽やかに描いてしまったのだ。
そこまでの大作と比べていただき、恐縮というか、すごくうれしいです。僕自身、「神の沈黙」みたいなものを映画の中に取り入れて、物語を紡いでみたいということは考えていましたので、スコセッシ監督の映画と同じ何かが描けていると、映画のプロの方に評価していただいたのは、すごく光栄です。
――ミッション系である青山学院を幼稚園から大学まで通われましたが、キリスト教に対する印象は?
その時々で考えが変わっていて、一言で言うのは難しいですが、自信を持って言えるのは、幼稚園や小学生の頃は、キリスト教のことをすごく考えていましたし、信じていました。その後は別に信じていないというわけではないですが、あまり考えなくなってしまって、この映画を作ることがきっかけでもう一度考えるようになったという感じです。
完全にではないですが、主人公のユラに自分の姿を投影させたところが多くあります。もちろん、小さなイエス様が見えたとか、イエス様に祈ったことがそっくりそのままかなったとか、そういうことが実際にあったわけではないのですが、純粋に超越した存在がいて、見守ってくださっているんだなということは信じていました。
僕自身は、洗礼を受ける予定もありますが、まだ受けてはいません。いずれ受けるのかもしれませんが、今はキリスト教をすごくよりどころにしているかというと、そういうわけではありません。しかし、僕自身が「僕はイエス様が嫌い」という思想かというと、もちろんそんなことはなく、むしろ信じているといえます。
――大学在学中に撮影したということですが。
大学4年生の2月、卒業の1カ月前に7日間で撮影しました。在学中は、ダブルスクールで映画美学校にも通いましたが、主に総合文化政策学部の内山隆先生のゼミで、いろいろな映像を撮らせていただきました。そこで、大竹しのぶさん主演の短編映画「Tokyo 2001/10/21 22:32~22:41」(第23回釜山国際映画祭出品)などを撮らせていただきました。
この映画は、厳密には卒業制作作品ではないのですが、大学や映画美学校などいろいろなところで学んできたことの集大成のつもりで作ったものですので、自分の中では、卒業制作作品だと思っています。在学中は、学生映画祭「青山フィルメイト」の実行委員長を務めたこともあり、映画祭の運営の仕方を学ぶ機会にもなりました。
――作品を観て感じてほしいことは?
神様がどうこうというのは、日本人の皆さんはそれぞれ考えが違うと思いますし、ましてやあまり考えたことがない人も多くいると思いますので、そういったことに対して、少しでも考えるきっかけになってもらえればと思っています。「神様って、自分はどんなふうに信じていたんだっけ」と、自分を振り返るきっかけでもいいですので。作品自体は、もちろん何かの宗教を布教するために作ったものではないですので、本当に感じるままに、そういったことを考えるきっかけになればいいなと思っています。
日本はいろいろな宗教が混じり合って文化が成り立っている国ですので、それを描きたいという思いは企画段階からありました。映画では、仏壇に手を合わせる場面や、賽銭箱にお金を投げ入れて願い事をするシーン、もちろんクリスマスを祝う場面もあります。そういう日本人の宗教観みたいなものをきちんと描きたいなと。でも僕は、そこに何か違和感を感じているわけではないので、「それっておかしくない?」というような風刺はしていませんし、自分を投影しているユラが違和感を持つような描写はなるべくしないようにしています。
――最後に、日本のクリスチャンに一言。
最初から覚悟の上で作っていましたが、やはりタイトルだけ見ると、拒絶感というか、「何だ、この映画は」と思う方もいらっしゃると思います。ですが、もしもその存在を信じていなかったら「嫌い」という感情もないはずで、あるのは「無関心」だけです。「信じていたのに」という意味での「嫌い」なのか、「信じている上での嫌い」なのか。タイトルで拒絶して作品自体を観ないのではなく、ぜひそれを確かめに劇場に足を運んでいただけたらうれしいです。映画を楽しんでいただけるかどうかは人によって違うと思いますが、決して不愉快になる映画ではないと確信しています。
■ 映画「僕はイエス様が嫌い」予告編