本作は、米国人作家ジェイムズ・ボールドウィンが1974年に発表した『ビール・ストリートに口あらば』を原作とし、昨年末に全米公開された作品だ。監督は、「ムーンライト」で第89回アカデミー賞最優秀作品賞を受賞したバリー・ジェンキンス。
前作「ムーンライト」は同性愛的要素が強かったが、本作は男女の恋愛を中心に据えている。70年代当時のアフリカ系米国人社会が、米国でどのような扱いを受けていたかを描いている。原作小説、映画ともにタイトルに入れられている「ビール・ストリート」とは、本来テネシー州メンフィスに実在する、わずか200メートル程度の通りである(原作小説では、アトランタにある設定となっている)。
物語の舞台は70年代のニューヨーク。家族ぐるみの付き合いがある19歳の女性ティッシュと、21歳の男性ファニーは幼なじみだ。共にアフリカ系米国人の2人は、やがてお互いを異性と意識し合うようになり、結婚を約束する仲になっていく。
ここで、プエルトリコ系の女性がレイプされるという事件が発生する。そして一人の警官がファニーの走り去る後ろ姿を目撃したと証言し、その後の面通しで、レイプされた女性がファニーに襲われたと証言したことから、彼はレイプの容疑で逮捕されてしまうのだった。
逮捕後、程なくしてティッシュの妊娠が発覚する。面会室の透明な壁越しに喜び合う2人。その報告を聞いたティッシュの家族も喜びを爆発させる(ファニーの家族はそれほど喜ばない。これもまた当時の黒人家族の別の一面を描いている)。
2人の家族はファニーの無実を信じ、何とか裁判で無罪を勝ち取れるよう奔走する。しかしその道のりは、決して安易なものではなく、ろう屋の中と外とで隔たれた若いカップルの苦悩は、時を経るごとにさらに深まっていくのであった――。
物語の舞台は70年代のニューヨークだが、原作『ビール・ストリートに口あらば』とは、1916年にブルース歌手W・C・ハンディが歌った「ビール・ストリート・ブルース」に由来するといわれている。
英語の仮定法を強調して意訳するなら、「もしもビール・ストリートが口を持っていて自由に語ることができたなら、言いたいことがたくさんあるだろう」となるはず。
このような仮定法を用いなければならなかったのは、ビール・ストリートという土地に特別な意味が込められているからである。1863年のエイブラハム・リンカーンによる奴隷解放宣言以降、見方によっては奴隷時代よりも劣悪な環境に置かれたアフリカ系米国人たちは、南部諸州で制定されたさまざまな法によって、自らの意見や考えを主張することを禁じられてきた。
そんな彼らにとって、ゴスペル、ジャズ、ブルースなどの音楽こそ、自らを表現できる数少ない手段であった。そしてメンフィスのビール・ストリートこそ、このような彼らの気持ちが、音楽によって凝縮された場であったのである。
私が初めてビール・ストリートに行ったのは、2011年3月のこと。平日(火曜日)の昼下がりであった。肉や野菜がスモーキーに焼かれるにおいを嗅ぎながらこの通りを歩いたことを、今でも忘れることができない。お店の内外では、平日にもかかわらず多くのミュージシャンたちが楽器を演奏し、その前に観光客の人だかりができていた。中でも印象的だったのは、初老の黒人男性がおもむろにトランペットを取り出し、ブルージーなサウンドを奏で出したことであった。
今なおビール・ストリートでは、音楽で彼らの気持ちが表現され続けている。しかし「口(言葉や弁論)」でストレートに語られることはない。それが伝統、それこそアフリカ系米国人の文化と言ってしまえばそれまでである。しかし、もし「口があれば」どうだったろうか。雄弁に語ることができたとしたら、彼らは何を語り、誰を非難し、どんな言葉を発しただろうか。
本作をよくあるハリウッド映画の「法廷物」と勘違いしてはならない。ネタバレとなるが、それは本作の主題とは程遠い展開である。ファニーは、ティッシュや家族の努力のかいなく、有罪となってしまう。「家族の懸命の努力で無罪を勝ち取った」という雄弁な物語ではない。しかし、70年代当時のアフリカ系米国人たちが置かれていた状況は、誤認逮捕や不当投獄が相次いでいて、無実の罪であるにもかかわらず、長期にわたる懲役を受けなければならないものだった。そしてそういった状況に追い込まれた彼らが「いかに生きるか」を淡々と描くこと、これこそが本作の肝であり、むしろ「声なき声」を通して、観る者に雄弁に訴え掛けてくるのである。
私たちの人生は、決して平たんではない。キリスト者となり、福音を知ったとしても、私たちの悩みや苦しみは完全になくなることはない。絶望することもあろう。しかし本作は、その絶望の真っただ中にある者たちが、ほとんど変わらない現実を、わずか数ミリずつであっても、ゆっくりと変化させていく姿が描かれている。「不屈の闘志」というような大上段から構えた立派なものではない。むしろ次の瞬間を生きる希望、明日一日を生かすわずかな力、そんな「微力だが、なくてはならぬもの」の大切さを、「声なき声」と共にそっと伝えてくれる。
物語のラスト、希望の光がうっすらと、しかし具体的な「口」を通して語られる。「口あらば」と仮定法で語られていた物語に、「言葉」として希望の源が示されるのである。彼らがどうしてこんな過酷な状況を生き抜くことができたのか、なぜ何度も社会に裏切られながらも希望を捨てることがなかったのか、その答えは意外なところにあった。そしてこの答えは、キリスト者であれば必ず自身の信仰に響くはずだ。ぜひそれは作品をご覧になって、直接確かめてもらいたい。それはまるで、イ・チャンドン監督の映画「シークレット・サンシャイン」のラストをほうふつとさせる名シーンである。
観客である私たちの背中をそっと押してくれて、「とりあえず明日もやれるだけやってみよう」と思わせてくれる、そんな「小さな勇気」を与えてくれる一作である。
■ 映画「ビール・ストリートの恋人たち」予告編
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