いやいや前代未聞とはこのことだ。第89回アカデミー賞の作品賞発表時、最初に読み上げられた作品は「ラ・ラ・ランド」だった。13部門14ノミネートという、あの「タイタニック」と並ぶ最多ノミネートを獲得し、作品賞大本命と思われていた。プレゼンテーターの女優フェイ・ダナウェイがその名を読み上げたとき、誰もが「やっぱり!」と思ったに違いない。
「ラ・ラ・ランド」はそれまでに、「主演女優賞」「監督賞」、他4部門で受賞を獲得していた。特にアカデミー賞の場合は、監督賞と作品賞は重なる可能性が高い。そのため、大本命がそのまま逃げ切ったという感覚を皆に与えることになった。だから「やはりそうか」となったわけだ。しかし、ドラマはここから始まった。
実はこの時読み上げられた封筒は、主演女優賞のものであり、「ラ・ラ・ランド / エマ・ストーン」と書かれていたらしい。そのため、作品名だけを読み上げることになった。だが本当は別に作品賞の封筒があり、しかも中身はゴールデン・グローブ賞で作品賞を分け合った「ムーンライト」だったのである!
ちなみにゴールデン・グローブ賞の作品賞は、ミュージカル・コメディー部門とドラマ部門があり、今年の作品賞は前者が「ラ・ラ・ランド」、後者が「ムーンライト」であった。そして下馬評は当然、「ラ・ラ・ランド」であった。
壇上でスピーチの途中にミスが発覚し、オスカー像の持ち主が変わるという前代未聞の出来事が起こったのである。まるで昨年の大統領選挙を彷彿(ほうふつ)とさせる出来事であった。
しかし、これは単なる比喩ではない。事実、トランプ政権誕生がこのアカデミー賞にも大きな影響(トランプショック)を与えたことは十分あり得ることである。本コラムでは、意外に見過ごされている今年のアカデミー賞と大統領選挙の関係を、ひもといてみたい。
「全米No.1ヒット!」といううたい文句は、日本ではもはや信用に値しないそうだ。確かに「これがNo.1か?」と言わしてしまう作品はある。これは実は「週間累計第1位」とか「感謝祭シーズン第1位」という、いわば「瞬間最大風速No.1」ということである。だから信用に値しないというのは確かに一理ある。
これに次いで多く見受けられるのが「本年度アカデミー賞最有力」。しかし、こちらの方はまだ神通力は残っているようで、日本ではこれを入れることでヒットするケースが多々ある。「ラ・ラ・ランド」も「ムーンライト」もこうした文字が並ぶ。しかし両作品は、あまりにも対照的な主題を扱っている。
「ラ・ラ・ランド」は、ロサンゼルスの陽気な雰囲気の中で繰り広げられる男女の恋愛、夢追い人の苦悩を描いている。前作「セッション」のスマッシュヒットで一躍有名人の仲間入りを果たしたデイミアン・チャゼル(結構イケメン!)が豊富な予算を使って、ハリウッドの古き良き時代にオマージュをささげたミュージカル映画である。
主人公は白人の男女で、彼らは芸術に時間を使うことのできる比較的富裕層の子どもたち(本人たちはお金がなく、バイトしているが、それで生計が成り立っているのは裕福な親が背後にいるから)である。
一方、「ムーンライト」はシリアスな人間ドラマであり、登場人物の大半がアフリカ系アメリカ人(以下、黒人と記す)である。しかも舞台はマイアミの黒人貧困層。実在するその町出身の映画監督と脚本家が、自伝的な物語として低予算で作り上げた作品である。そして主人公は同性の男性に恋心を寄せるという、いわゆるゲイを題材とした作品である。
アカデミー賞には、全世界に6千人以上の投票権を持つ会員が存在し、そのほとんどが映画関係者である。つまり映画を生業とする職業人が、プロの目から見て「これはいい!」という米国映画選定(外国語映画賞も米国で一定期間上映されなければならない)する最も権威ある映画賞ということになる。
2年連続でノミネートが100パーセント白人であったことから多くの批判が噴出し、新たに非白人の会員を増やしたという。2012年の調査だが、会員の平均年齢は62歳、その94パーセントが白人である。50歳以下は驚くべきことに14パーセントしかいない。
つまり、こういうことになる。映画人として思想的には左寄りのハリウッドだが、その構成員の大半はWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)であるということから、アカデミー賞の中でも最高の名誉とされる作品賞は、リベラル思想に基づいた革新的な物語が多くノミネートされるが、基本的に保守的なアメリカ神話を敷衍(ふえん)した作品が選ばれることが常であった。
例を挙げよう。1991年度(90年公開作品が対象)のオスカー戦線。下馬評では圧倒的にオリバー・ストーン監督の「JFK」が本命であった。これはご存じのように、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の内幕を(想像とはいえ)暴露しようとした野心作である。
これ以外のノミネーション作品の1つにサイコスリラーである「羊たちの沈黙」があった。ジャンルがスリラーということで、ほとんどダークホース的な扱いだった。ところがふたを開けてみると、こちらが作品賞。「JFK」は監督賞をストーンに与えたが、作品賞には届かなかったのである。
ここで大きな議論が生まれた。なぜなら、ケネディ暗殺に関する資料は映画公開時の90年には公開されておらず、陰謀や裏工作に関するところはほとんどフィクションだといわれていたため、「物語」としてこの作品を見るなら、作品賞を得ても納得の力作だったからである。だがそうならなかった。ここにアカデミー賞会員の保守性が色濃く反映している。
そう当時の評論には書かれていた。つまり、大統領に関して面白おかしく脚色した作品が生まれるのは許せるが、これに冠(最優秀作品賞)を与えることは、アカデミー賞の性質上できなかったというわけだ。
さらにもう1つ。これは2005年度(04年の公開作品が対象)のアカデミー賞でのこと。この時は、アン・リー監督の「ブロークバック・マウンテン」が一歩リードしていた。
この映画は、今は亡きヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールが共演した作品で、何とこの2人がゲイのカウボーイという設定で繰り広げられる人間ドラマである。広大な大自然の中で、結ばれたくても結ばれない、そんな男2人の生きざまを、当時のゲイカップルへの偏見を交えて描いた秀作である。この時も監督賞はアン・リーであった。
しかし作品賞は、ロサンゼルスの多様な人間の交錯を描いた群像劇「クラッシュ」が獲得している。印象的だったのは、作品賞を読み上げたプレゼンテーターのジャック・ニコルソンが、驚きの表情で「クラッシュだ!」と叫んでいたこと。この時は、同性愛ドラマを作品賞にすることはできない、というアカデミー会員の主張が浮き彫りになった瞬間であった。
これらの現象は、大統領への一定の敬意を示し、伝統的な結婚・恋愛観を肯定するアカデミー賞の保守性を示していた。アカデミー賞を獲得する作品が、伝統的なアメリカ精神を称揚し、キリスト教的な価値観を反映(時には裏返しでアイロニカルに現実を描く)したものであることは以前からいわれてきたことである。
しかしその流れが、昨年、一昨年の「白いアカデミー賞(ノミネートが白人のみ)」を生み出したことで、彼らは大きな変革を決意したといえる。さらに、この決意を結果的に後押ししたのが、ドナルド・トランプ新大統領の誕生である。
今年のアカデミー賞は、お祝いムードというよりも、反トランプののろしを上げるような雰囲気すら感じられた。前夜祭の集まりでは、トランプ政権の移民規制政策に反対する集会が開かれたり、LGBTを迫害するような法令を検討していることに抗議するハリウッド俳優たちの講演会が行われたりした。
外国語映画賞にノミネートされたイランのアスガー・ファルハディ監督と主演女優タラネ・アリシュスティが米国の排外政策に抗議し、アカデミー賞をボイコットしていた。その彼らに外国語映画賞を与えてもいる。
今回、「ラ・ラ・ランド」の下馬評がなぜ高かったのか。それは、保守的なアカデミー賞会員のツボを全て抑えたような作品だったからである。しかし、結果は全く正反対の雰囲気を醸し出す「ムーンライト」が受賞した。
非白人が主人公で、同性愛を肯定している低予算映画に今年最高の栄誉を与えたハリウッド。確かに作品としてのクオリティーが高いことは、予告編を見ても分かる(日本では4月28日公開)。だがそれ以上に今回のアカデミー賞は、「米国の今」をうかがい知ることのできる象徴的なイベントとなったのではないだろうか。
05年度の「ブロークバック・マウンテン」の頃には考えられないチョイスが、16年度には起こったのである。ハリウッドはついにLGBTを「普通のこと」として公式に認めた。それはトランプ政権への抵抗という要因があったにせよ、米国映画史にとって、そして映画好きな米国の歴史にとって、大きなターニングポイントとなったことは間違いない。
皮肉なことだが、「ムーンライト」の作品賞受賞に最も貢献したのは、トランプ大統領かもしれない。封筒の入れ間違いがあったにせよ、最初に「ラ・ラ・ランド」が読み上げられ、その後に「ムーンライト」が壇上に上がるという大どんでん返しは、もしかしたら昨年11月の大統領選挙が生み出した「既定路線」だったのかもしれない。
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