2018年の年末映画が次々と公開されている。今年は夏がシリーズ物の大作続きであったせいか、小粒ながらさまざまなジャンルの映画が公開されることになっている。
その中でもひと際異彩を放っているのが、今回取り上げる「暁に祈れ」である。2017年のカンヌ映画祭で公式上映され、好評を博し、米国の映画レビューサイト「ロッテントマト」で驚異の96パーセントの支持率を獲得した作品である。
舞台はそのほとんどがタイの刑務所内。実際の刑務所でロケが行われ、演じている囚人役のほとんどが実際の囚人やかつて服役していた元囚人たちだというのも話題を呼んだ。
原作は、麻薬所持と使用の常習犯として実際に警察に拘束され、タイの刑務所に入れられた経歴を持つ英国人ボクサー、ビリー・コールの自伝。彼が本作の監修とアドバイザーを務めていることからも分かるように、徹底したリアリティーを追求した作品となっている。
人生をやり直そうとしてタイへ修行にやってきたはずのビリー(演じているのは新星ジョー・コール)は、ムエタイをしながら生活していた。しかしパッとしない戦歴の中で、ついに麻薬に手を染めてしまう。そして、いつしかその中毒者への道を転げ落ちていくこととなる。
映画はその冒頭から、ビリーの緊張した表情を捉えて離さない。荒い息遣い、滴る汗、そして明らかに尋常ではない血走った瞳・・・。やがてカメラがワイドになると、彼の全身を映し出す。試合前の緊張を見事に演出している。
この手のボクシング(今回はムエタイ)映画にお決まりの「感動」や「スポ根」要素が皆無と言っていい。そう、この映画は「ロッキー」や「あしたのジョー」のような人生逆転ドラマではない。意志が弱く、決して強くもない「ただの男」が、過酷な環境に突然放り込まれ、生きる指針やプライドなどとは最も縁遠い生きざまを赤裸々にさらけ出す物語なのである。
刑務所内では、レイプ、リンチ、わいろ、殺人など、何でもありである。しかもタイの囚人たちはほとんどが全身に入れ墨を入れている。そんな中にいると、真っ白くてツルツルした肌のビリーはどうしても目立ってしまう。やがて彼の周りに、さまざまな目的から近づいてくる男たちが現れるようになる。ビリーは彼らを無視することも、適当に流すこともできない。真正面から向き合い、彼らの理不尽な要求や非人道的な挑戦を受けなければならないのだ。
監督は「ビリーが体験した『この世の地獄』をそのまま観客にも体感してもらいたいと思った」とインタビューで語っていたが、まさにその狙い通りの恐怖を観る者に与える。
しかし、目の前で次々と巻き起こる嵐のような出来事を前にしたビリーは、物語の後半で祈る姿勢を見せる。それは夜明け前に一人たたずんで、ただひたすらに目を閉じて目の前で手を合わせるだけの素朴な姿である。
果たしてビリーは何を祈っていたのか。また、誰に祈っていたのだろうか。本作で延々と続く刑務所内の描写とは明らかに一線を画したシーンである。しかもそれが結構長い。カメラはビリーの表情をしっかりと捉えるが、すこし引いた角度から彼の顔全体を映し出している。これは冒頭のビリーを捉えた絵とはまったく異なっている。この世の地獄のただ中にいて、狂気にさらされている彼にとって、このような「祈り」とはどんな意味があるというのだろうか。
観終わって、一つの思いがふと浮かんできた。それは、人はどこまでいっても「祈る」存在であるということである。ある特定の宗教や具体的に頼るべき神(もしくは神のような存在)を見据えている者は、確かに祈るだろう。しかし中にはこのビリーのように、いったい自分が何に祈っているのか、どうして祈るのか、そんなことすら考えることができないからこそ「祈り」の姿勢を取ってしまうということもあるのではなかろうか。
人が他の動物と決定的に異なるのは、この「対象なき祈り」をささげる姿を見せてしまうことにあるのではなかろうか。例えば、甲子園球場であと1本ヒットが出たら逆転勝利することができる、という場面をテレビで観たことがあるだろう。その時、応援団席にいる出場校の生徒たちの中には、手を組んで祈りの姿勢をしている者が少なからずいる。
自分の願いはある。しかしその願いをどこに、誰に、どんな形で示したらいいのか分からないことがある。特定の宗教を持ち、祈ることが日常茶飯事となっている宗教慣れした者よりも、形式やしきたりをまったく理解していない彼らが祈る姿勢は、むしろその姿を観る者に強烈なインパクトを与えることになるのだ。
ビリーが夜明け前(暁)に見せた祈りの姿勢は、それほど彼が困窮していることを示すと同時に、とことん追い込まれた中でこそ気付くことのできる「原初的な人間の姿」ではないだろうか。
聖書の中には次のような言葉がある。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8:26)
人がどうしても祈らざるを得ない存在であるとしたら、この言葉は私たちを生かすものとなるだろう。神の御霊は、私たちがその方を知っていようと知らなかろうと関係なく、私たちのために常にとりなしをしてくれるのだ、と訴える聖書の言葉は、「対象なき祈り」をささげていると思っている人々に対して「福音=良き知らせ」となることだろう。
あなたが思わず祈ってしまったとき、その祈りはむなしく地に落ちるのではない。不思議な方法であなたを生かすことのできるお方の元にちゃんと届けられている。そして、その意味と正しさを理解することができるようになるまで、私たちを導いてくれるのである。
「暁に祈れ」は、ヘタレ男のみじめで恥ずかしい生きざまをリアリティー豊かに見せる秀作である。同時に、人は祈らざるを得ない存在であることをはっきりと教えてくれる。年末年始の華やいだ雰囲気にはそぐわないが、観終わった後にあれこれと話したくなる一作であることは間違いない。
12月8日(土)よりヒューマントラストシネマ渋谷&有楽町、シネマート新宿ほか全国順次公開。
■ 映画「暁に祈れ」予告編
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