映画「純平、考え直せ」は、小規模公開ながら話題性十分の作品となっている。試写で一足早く拝見したが、単に話題が先行するだけの作品ではなく、観る者に映画のその後を想像させ、自分だったらどうするかと考えさせる良質の青春物語に仕上がっている。
原作は、直木賞作家・奥田英朗のベストセラー小説。SNSと任侠(にんきょう)世界を巧みに掛け合わせた作風は、多くの支持者を生み出したと聞く。ちなみに筆者は原作未読である。
主人公の純平は21歳。とある暴力団の駆け出しである。歌舞伎町界隈(かいわい)をうろつき、いつか「一人前の男(漢)」になる夢を描いている。映画でうかがい知れる彼の過去は、決して幸せなものではない。家族がほとんど出てこない。唯一登場した母親もどこか他人行儀でよそよそしい。一方、彼が「アニキ」と慕う組員のことを、純平は本物の兄のように信頼している。このねじれた人間関係が、彼の言動の源泉になっているようだ。
劇中、純平が使う言葉、言い回しがあまりに「昭和感覚」なため、観ているこちらが恥ずかしくなるくらいであった。彼なりに考えたスジを通すことを第一に行動する様子は、騎士道精神が廃れてもなおそれに殉じようとするドン・キホーテを連想させる。
そんな彼に突然転機が訪れる。「鉄砲玉」として、対立する組の幹部を殺せ、という命令が下されたのである。その話はとてもいかがわしい。大人ならそうすぐに感じられる。だが純平はそうではない。「組のために命を捨てます!」と言い切り、しかもこれを「一人前の男」になる千載一遇のチャンスだと本気で信じ込んでしまう。
これだけ見ていると、まさに往年の「東映ヤクザ映画」の王道である。しかし時代が昭和ではなく平成であることを観る者に意識させるのは、SNSを通じて純平の言動を評価する不特定多数の人間が登場することである。
彼らは「無関係の第三者」であることをいいことに、徹底的に無責任で勝手なコメントを書き並べる。純平のやろうとしていることの是非を勝手に断定する者。それがどんな結果を生むか、刑期が何年になるかなど突き放した言い方で嘲笑する者。中にはかなり歪曲した情報から彼をあおるやからも登場する。SNSの世界は、純平が願っているスジも任侠も存在しない。その両極を映画は見事に提示し、純平が果たして鉄砲玉となるか否か、そこに焦点を合わせて物語を進めていく。
観ていて思い出した映画が2本ある。1本目は、カズオ・イシグロ原作の「わたしを離さないで」である。この映画の主人公たちは、心に葛藤を抱えながらも決して体制に反抗しない。疑問を抱いても行動でそれを表そうとしない。だからこそ、観る者に深い不条理感を与え、それがドスンとみぞおち辺りに一発くらわせることになる。同じような余韻を本作でも味わった。
もう1本は、「マッド・マックス 怒りのデスロード」である。この映画には、尊敬してやまないボス(悪役イモータン・ジョー)のために自分は命をささげるのだと決心し、身を殉じていく若者が登場する。悪役のために身を殉じるという袋小路(自分は捨て駒でしかないという事実)に対して、そのことを分かっていながらも、彼なりの「責務」を果たすことに専念していく。その姿は、圧倒的な熱量をもって観る者を鼓舞することになる。
私は純平の姿に、「マッド・マックス」の若者を重ねてしまった。純平は、自分のアニキが「大人の取り引き」をして、自分を鉄砲玉にすることで自身の出世を勝ち得たことを知ってしまう。それでも彼は一度決めた決意を鈍らせようとはしない。周りの多くの者が「純平、考え直せ」と訴えても、その声が彼に届くことはない。
鑑賞後、2つの相反する聖書の言葉が去来した。一つは、旧約聖書の次の言葉である。
若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい、神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。(コヘレト11:9)
純平の姿は、刹那的、短絡的に生きる現代の若者の特質を表している。その先に何が待っていようとも、そしてその意味を理解していようとも、前に突き進むことしか考えられない。それは「若さ」故になせる業である。しかし聖書はそのような若者に対して、大人の意見を述べる。「神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれる」と。
純平が鉄砲玉となったか否か、それは直接劇場で確かめてもらいたい。その辺りは、観る者の解釈が大きく左右する展開となっている。「若さ」故の過ちであったと観客が受け止めるなら、上記の聖句が身に染みることだろう。
一方、次の新約聖書の言葉も脳裏をよぎった。
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・(フィリピ3:13)
ヤクザの鉄砲玉(一種のテロリズム)と、キリストへの献身を一緒に語るのはいかがなものか、という声もあろう。しかしここで語るパウロですら、異教徒からは「ペストのような存在」として煙たがられた。キリスト教世界のみにとどまっていては、福音を異世界へ伝えることはできない。「パウロ、考え直せ」と言われて萎縮していては、キリスト教は現在の姿にはなっていなかっただろう。
当初は「ペスト」と呼ばれて嫌われようとも、一度神からの啓示を受けたならそれに殉じる覚悟が献身者(キリストのためにすべてをささげる決心をした人)には求められる。その心情は、もしかしたら純平が鉄砲玉を引き受けた気持ちと近いものがあるかもしれない。何度も繰り返すが、純平とパウロとでは、訴える方向は真逆である。しかし内に秘めた熱量という点では、「マッド・マックス」の若者同様、「若さ」故のひたむきさがそこにあるということができよう。
「若さ」には相反する功罪が同在する。刹那的で後先考えない無謀さと、目の前の出来事に集中するが故に生み出される熱心さや義侠(ぎきょう)心である。このように相反する「若さ」を抱いた者たちによって、歴史はつくられてきた。
「若さ」を未熟さと感じる者は、先人たちの知恵に心を開くべきである。しかし同時に、大義を抱きそれに身を奉じる「若さ=ひたむきさ」を全否定してしまうなら、人は体制に流される根無し草となってしまう。
映画「純平、考え直せ」は、相反する「若さ」の功罪を鮮やかに描き出した良作といえよう。いよいよ9月22日(土)から、新宿シネマカリテ、シネ・リーブル池袋ほかで全国順次公開される。
■ 映画「純平、考え直せ」予告編
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