東京のアート系映画館に出向いたとき、何気なくチラシを手にしたことから、映画「カメラを止めるな!」のことは以前から知っていた。この作品をどうしても観たいと思わせられたのは、映画評論家の町山智浩氏がラジオで絶賛していたからである。
ネットで本作を調べてみると、どうも「今までの映画」とは違うことが分かる。例えば、「監督&俳優養成スクール・ENBUゼミナールの《シネマプロジェクト》第7弾作品」という経歴から、まだプロとして一人前になっていない監督や無名俳優によるインディーズ的な作品であることが分かる。しかも題材はホラーの王道たる「ゾンビ物」らしい。既視感の強いシリーズ物に飼いならされている昨今の映画界。そこからはみ出た、まさに「規格外」作品であることに、否が応でも胸が高鳴ってしまう。
さらに「2017年11月、初お披露目となった6日間限定の先行上映では、たちまち口コミが広がり、レイトショーにもかかわらず連日午前中にチケットがソールドアウト!」という触れ込みから、ストーリーの面白さで魅せる作品なのだな、という想像がつく。続いて映画の予告編がアップされていたため、それを鑑賞。すると単なるホラー映画ではないことに気が付かされた。「これをどうやって『おもしろい!』と言わしめるレベルへ持って行くのか」という興味が尽きなかった。
6月下旬に東京都内2館で公開された。連日満席となり、一気に公開館数が拡大した。その後の快進撃は言うまでもないだろう。上映館数は8月に入って100館を超えた。日比谷TOHOシネマズでは最大規模のキャパ(500席以上)で連日上映されている。マスコミもこぞってこの作品を取り上げ始めた。そして並み居る夏の大作映画をしり目に、累計動員は86万8千人、興収はついに12億5700万円を突破している(8月27日現在)。観客動員ランキングは、先週の8位から6位へアップ。ちなみに7位は初登場の「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」。米国では1億ドルを超える収益を上げているハリウッド映画である。
一方、このブームに水をさすような報道が8月21日にあった。本作には元ネタとなった劇団の舞台があった、というもの。いわゆる「パクリ疑惑」である。しかし翌週に観客動員ランキングをさらに2つ上げていることからすると、むしろこの報道はスキャンダルとはならず、人々の耳目を集めることに貢献したようである。
同時に私はこの「パクリ疑惑」報道に違和感を抱いた。端的に言うなら「そんなことが知りたいんじゃない」というものである。どちらがオリジナルなのか、という問題より、どうやってこのような物語を思い付いたのか、ということである。むしろこういった事態が生じることで、芸術や文学をこの世界に生み出すとはどういうことか、という古くて新しい問いが浮かび上がってきたように思う。
これほどまでに人々を魅了し、「ネタバレ厳禁!」と言わしめる映画「カメラをとめるな!」の魅力とは何だろうか。そして現在巻き起こっている騒動が示す新たな一面とは? そんなことを考えているうちにまとまった文章が出来上がってしまった。今から3回に分けてこれらのことをひもといていきたいと思う。
そもそも「人々が殺到している」という情報は、キリスト教の牧師として看過することはできない。何よりも、一体なぜ? どうしてそんなに人を引き付けられるのか? そういう本能的な欲求がある。
鑑賞後、何度も頭の中で再構成しながら考え、ある結論に至った。実はこの作品および現在巻き起こっている「パクリ疑惑」騒動に対し、神学的手法を用いることで他の評論とは一味違う「おもしろさ分析」をすることができるということである。かなり強引なのは筆者も重々承知だが、この試みを今から断行してみたい。
人は、自身が共感できたり、興味をそそられたりする文学や芸術に出会ったとき、それを「おもしろい」と感じる。そしてそのおもしろさを何度も追体験したくなり、同じような刺激を与えてくれそうな他の作品(作家や画家、映画監督の別の作品など)を探すなどしているうちに、作品のおもしろさがどこから生み出されてきたのかを知りたくなる。オリジナルアイデアが何(または誰)に起因しているのかを衝動的に探したくなる、といってもいいだろうか。
本作「カメラを止めるな!」はまさにその過程をたどった。多くの人々が「何度も追体験したい」と願い、スクリーンで展開する物語の「語り口」に舌を巻く。そして人々はこんなおもしろい物語がどうやって生まれたかを知りたいと思うようになる。その問いに最も明確な答えを示してくれるのは、本作の監督であると人々が考えたのは当然だろう。上田慎一郎監督が脚本・編集をすべて自分でこなしていたからである。
だが、現実はそうではなかった。上田監督はアイデアのオリジナルではなく、そもそもの源泉は舞台劇で上演されていた作品であり、映画で皆を驚嘆させ、おもしろがらせた「あのネタ」を最初に生み出したのも、この劇団を主宰していた和田亮一氏だというのである。
和田氏本人が訴え出たことで、上田監督は和田氏のアイデアを拝借した、悪く言うと「パクった」ということにされてしまった。真偽のほどは現時点では明確になっていない。そもそもそれが明らかになるかどうかも怪しいものである。
両者の感情的な対立を横に置くとしたら、現在マスコミを賑わせているこの騒動の構図は、聖書をめぐる歴史的変遷にとてもよく似ている。ご存じのように聖書は地球規模で多くの人々を魅了し、リピーター(信者)を日々生み出し、多くの芸術家が本書からインスパイアされて作品を生み出している。そういった意味では、「カメラを止めるな!」などと比べ物にならないくらいの大ヒットを2千年以上にわたって飛ばし続けている「世界のベストセラー」である。ちなみに18世紀まで、聖書の監督・脚本・編集は「神様」がなされたという教えに対し、公に疑義を差し挟む者は当然いなかった。
やがて19世紀になり、人々は自分たちを魅了して離さない聖書がどのようにして生み出されたかについて、理性に基づいて知りたいと思うようになる。そして探究の手法として、当時隆盛を極めていた文学分析の手法を聖書に応用することを思いつく。そして生み出されたのが「聖書批評学」であった。
私は決して難しい「神学論議」をここで展開したいのではない。むしろ一見小難しく思える「神学」という世界が、実は私たちにとって身近なリアリティーある出来事に関連していることをお伝えしたいだけである。次回、次々回で、「聖書批評学」の手法を用いて映画「カメラを止めるな!」とこの作品に関する「パクリ疑惑」を解読してみたいと思う(続く)。
■ 映画「カメラを止めるな!」予告編
◇