前回取り上げたように、映画「カメラを止めるな!」は多くの観客を魅了し、現在も快進撃を続けている。並み居る夏休み大作を押しのけ、観客動員ランキングは8月26日現在6位である。一方、この作品にケチが付けられる事態も発生した。劇団を主宰していた和田亮一氏からの「オリジナルは私だ」という訴えである。
どうしてこの映画がヒットしたのか。加えて「パクリ疑惑」のような騒動をどう捉えるか。これを筆者は神学的観点から真面目に考察していきたい。取り上げるのは「聖書批評学」という概念である。
聖書批評学には「下層批評」と「高層(高等)批評」という区分が存在する。まず「下層批評」から見ていくことにする。これが「カメラを止めるな!」をめぐる「パクリ疑惑」騒動を解説する上で有用だと思われるからである。
筆者が神学校時代に出会った名著『現代キリスト教神学入門』(W・E・ホーダーン著)の定義に従うなら、「下層批評」は次のようにまとめることができる。
「下層批評はテキスト(本文)の問題をとり扱い、これまで発見された多くの資料を吟味して、どれがもっとも聖書の原典に近いものであるかを見いだしていく作業である」(72ページ)
19世紀という時代が聖書を他の書物同様に扱うことを許容し、そのルーツをたどらせることとなった。聖書は16世紀に印刷技術が生まれて以来、書物化されたが、それ以前は写本であった。つまり写本の原本をたどることで、よりオリジナルに近い「聖典としての聖書」に出会えるのでは?と人々は考えたのである。
これは前述したように、人が興味をそそられ、共感できる芸術などに出会ったとき、その源泉を求めたくなる欲求と軌を一にしている。
聖書は下層批評によって、次々とオリジナルにより近い写本が追究され、系統図が形成されていった。もちろんこれが単線であるはずがない。さらに、多くの仮説が学者たちによって生み出されたため、皆が納得できる写本系統図が完成するはずもなかった。だがこの探究の旅は「聖書学」という部門に組み込まれ、神学において不動の地位を得ることになる。
「パクリ疑惑」は、映画「カメラを止めるな!」にとって「下層批評の営み」であるといえるだろう。私たちは映画を観て、これをおもしろいと感じた。そしてこれがどうやって生み出されたのか、当初考えられる最もオリジナルに近い存在(上田慎一郎監督)に出会う。これが最初に見いだされた写本に相当する。
しかし全国公開が決定して以降、さらに上田監督からオリジナルへさかのぼることができることを知らされた。それは、劇団で演出を担当していた和田氏からのクレームで明らかになった。「オリジナルは別のところにある」という観点で上田監督のインタビューを読み返してみると、確かに自身で「ある劇団の舞台からインスパイアされた」と言っていることに出くわす。するとどうも和田氏の方がよりオリジナルでありそうだ、という推察が成り立つ。つまり、手元にある写本よりもさらにオリジナルに近い写本が「発掘(本人が名乗り出たのだが)」されたということになっていく。
オリジナルを求めて、どちらの写本がより原典に近いかを探る営みを「下層批評」ということは上述した通りである。その観点から見るなら、まさに今起こっていることは、「カメラを止めるな!」における下層批評学的な騒動といえないだろうか。
最大のキモである「あの仕掛け」を、誰がどうやって見いだしたのかを精査する「パクリ疑惑」は、原案か原作かというお金や法律が絡む問題だけでなく、むしろアイデア重視の芸術作品全般に関わる本質的な問いを私たちに提供してくれるといえる。
キリスト業界の端くれとしてこの映画に対して私が思うことは、もし和田氏の舞台から上田監督がインスパイアされたのであれば、和田氏がどんなきっかけであのような仕掛けを思いついたのかをむしろ知りたい、ということである。
19世紀以降、同じような動機で聖書が研究された。聖書はその誕生以来、19世紀になってもなお、人々にとって魅了される書物であった。大胆に言い換えるなら、私たちが映画や小説を読んで「感動した!」と公言するのと同じくらい興味をそそられる「重要な作品」として、西洋社会に君臨し続けてきたのである。
やがて近代に入り、理性と科学の時代を迎えた。しかし聖書を科学や理性で捉えきることが難しくなる中、これを「古めかしいおとぎ話」として立ち消えさてしまうにはあまりに惜しいと思う者たちが現れ始める。
そして彼らは、むしろ聖書の本質やその成り立ちを理性と科学で証明し、その価値と意義を守ろうと考えた。だから聖書を他の文学作品などで用いる「批評学的手法」を用いて研究し始めたのである。そう、彼ら聖書学者は当時も今も、人一倍聖書に魅了されていたのである。
だがその結果、聖書の写本系統図は諸説入り乱れることとなり、結果としてオリジナルに迫る探究は仮説の域でとどまらざるを得なくなった。同時に、不明瞭な結果しか提示できなかった聖書に対し、疑いや反感を抱く者を生み出してしまったのである。
「カメラを止めるな!」においても同じことが起こっている。どうして「パクリ疑惑」が発生したのか。それは本作が90万人もの多くの人々を一気に魅了したからである。剽窃(ひょうせつ)かどうかをめぐる問題であると同時に、多くの人々が作品に魅了されたため、主題やメッセージの本質をより身近に感じたいという欲求が、思わぬ探究の扉を開いてしまった。どうやら今のところは騒動が作品に与える影響は少なくて済んでいるようである。しかし今後、配給会社側と和田氏側の対立が深刻化するなら、裁判にも発展しかねないだろう。
そう考えると、現在起こっている騒動は、単なる剽窃事件ではなく、かつて世界規模で引き起こされた大論争(聖書を聖典として認めるかどうか)の現代(縮小)版とも言い得るのではないだろうか。
確かに「世界三大宗教の一角を占める聖典たる聖書」と本作を同次元で語るのは、あまりにかけ離れていると思う。しかし、19世紀であっても21世紀であっても、人が興味関心を抱いた対象のオリジナルを求めたくなる気持ちには変化がない。
ワイドショーや新聞で、この騒動に対して法律の専門家が出てきてあれこれコメントしているのを見ると、本当に知りたいのはそこじゃないんだよな、と思ってしまう。もし仮に法廷にこの騒動が持ち込まれるなら、「法的には」解決できるだろう。しかしそれでこの映画のおもしろさのソースが解明されるわけではない。本当にここまでにヒットを飛ばせるということは、自分がオリジナルだと主張している本人同士が気付かない「世界観」がその背後に存在しているのではなかろうか。
そのことを端的に言い表しているのが、この作品のキモである「あの仕掛け」である。次回はいよいよネタバレ全開で、作品を「高層(高等)批評」的観点からひもといてみたい。(続く)
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