※ ここから先はネタバレありです。お気を付けください。
W・E・ホーダーンの『現代キリスト教神学入門』に戻ろう。「聖書批評学」の項目で、「低層批評」に続いて「高層(高等)批評」が扱われている。
「(高層批評の関心は)テキストの言葉の意味のほうにあったのだ。行間の意味をさぐり、テキストの背後に実際にどのような出来事が起きたのかを読み取ろうとした。そうするためには聖書の資料の一つ一つが、いつ、どこで、だれが、だれに書いたのかを知る必要にせまられた。このような背景を正しく知らずに、聖書の本当の意味を理解することはできない、というのが高層批評の立場である」(73ページ)
下線部に注目したい。聖書は18世紀までは「一点一画に至るまで誤りなき神の言葉である」と皆が受け止めていた。だが近代以降に理性と科学が目覚ましい発展を遂げるうちに、聖書の各書巻はさまざまな写本を継ぎ合わせ、なるべく整合性を取るようにして現在の形になったという説が優勢になってきた。そういった視点であらためて聖書の書巻を精査すると、各書巻をまとめ上げていく過程において、一見整えられているように思える文章の中に、明らかに特異な文体や表現、前後の流れを阻害するような言葉が挿入されていることに気付かされる。
この齟齬(そご)や違和感がどうして生まれたのか、を論理的に解明するのが「高層批評」という学問である。この考え方の萌芽は、ルネッサンス後期にまでさかのぼる。歴史学の分野で古代文書を精査する手法として発展してきたという。それが19世紀になって、聖書に本格的に適用され、「高層批評」という独自の神学的展開を見せたのである。
つまり「高層批評」は、聖書における不整合に目を留め、そこから各々の文書の背景を探りながら、異なる複数の文脈が一つに合わせられて一つの書を形成しているということを明らかにしたのである。だから物語として一見滞りなく流れているように見えても、よく見るとそこに矛盾や唐突な物語展開が存在しているのは当たり前、ということになる。むしろどうしてそんな齟齬や不整合が生じたか、を説明することが「聖書学」、ひいては神学の重要な課題となっていく。
もちろん文脈の数や、どの部分がどの文脈に収斂(しゅうれん)されるかなど、ここにも諸説生まれてしまったため、「聖書は字句通り」という従来の考え方を否定する結果となり、聖書の聖典性に疑いを持つ者たちが新たに輩出されたことは否めない。
映画をご覧になった方なら、ここまでの説明でピンとくるだろう。本作のキャッチコピー「最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。」にも実は最大のネタバレが隠されている。実はこの映画は「ホラー映画」ではない。さえない雇われ映画監督とその一家が、「ゾンビ映画を撮影しているロケハンの中に本物のゾンビが紛れ込んだ」という「入れ子構造」の映画を撮影するために奔走する「オタク系ファミリームービー」だったのだ。それが映画の後半で明らかになる。すると今まで抱いてきた違和感や不整合、ご都合主義的展開に「納得」が与えられることになる。
本作のキモは、この「入れ子構造」が微妙にかみ合っていない様子をこれ見よがしに見せるところにある。ワンカット(37分長回し)をライブでそのままテレビ放映しなければならない、というある種究極のシチュエーションを構築し、決して失敗が許されない状況で撮影された映像を観客は冒頭から見せられる。それが「ゾンビ映画を撮影しに来たロケハンの中に紛れ込んだ本物のゾンビ」という設定である。
冒頭からの37分間、観客は多くの雑念を抱くだろう。確かにカメラは止まらない。撮影は続くが、どう見ても前のシーンと目の前で展開しているシーンとはかみ合っていない。両シーンの間に、何か見えない段差が存在しているような、そんな違和感に襲われ続けることになる。
そして前半の37分間が過ぎ、一応ホラー作品としての完結を迎えた後から、どうしてこんな映画になってしまったのかという種明かしが始まる。これがもう一つの(2番目の)入れ子構造である。
後半、解答編のような物語展開を見ていくと、実は前半のライブ映画の場面は壮大な前振りであったことが分かる。あえて観客に不整合(かみ合わない台詞、無駄な動き、ご都合主義的な展開)を見せつけ、観る者を不安にし、そして最後にちゃんとそれぞれの不整合には理由があったんだよ、と後出しじゃんけん的に舞台背景を見せるというやり方である。この落差に笑いが起こり、また感動が生まれる。
それだけではない。一見わけの分からないシーンだと思わされた背景で、実はこんな感動的なやりとりがあったのかとか、意味不明なあのシーン、ご都合主義的なあの小道具は、すべてやむにやまれぬ事情があって、こうせざるを得なかったのか、ということが見えてくる。ここにある種の「崇高さ」すら、私は感じた。
そう、この映画最大のキモ、人々を魅了してやまないアイデア(それを誰が最初に生み出したかはこの際問題ではない)は、不整合のように思わせておいて、実は緻密な計算の下、その不整合を埋めるピースを的確にはめることで、新たな世界観を観客に提示し得たことである。
この手法は、まさに聖書を探求する「高層批評」のそれである。神学の世界では、テキストの背景を探ることで、目の前にあるテキストが異なる彩りを持っていたことが分かり、あらためて聖書の各書巻が読み手に迫ってくるようになる。
「カメラを止めるな!」は、図らずも神学の分野で生み出された研究手法を見事にエンターテイメント化させたことで、人々の心に響く作品となったと私は受け止めている。そうであるなら、キリスト教界は大いに喜ぶべきである。私たちが日頃から手にしている聖書を「テキスト」とあえて見なすことで、逆に聖典としての聖書に興味を持たせることが可能となるはずだ。
聖書の本文をそのまま読むだけでなく、不整合を感じさせる箇所についてはその背景をきちんと語ることで、実は日本人の心を主に向けさせることができる。キリスト教ビギナーの方々を魅了する可能性を、聖書は、そして牧師は手にしているのである。
第1回の中で書いたが、卑しくもキリスト教の牧師として、「人が殺到している」という現象に目を向けずにはおれない。そしてその原理原則をこの手につかみたいと願うのは当たり前のことだ。私は本作を通して、直接的ではないにせよ、何か大切なものを垣間見せられたような気がする。
映画「カメラを止めるな!」は、2018年の忘れられない一本となった。(終わり)
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