前回は、クリスチャンにとってこの「沈黙」をどう受け止めるべきかについて解説した。今回はその続きで、ではほとんどキリスト教的素養のない方々、すなわちノンクリスチャンにとってこの映画は、そして遠藤の作品はどのような意味を持つのだろうか。
まず何といっても、巨匠マーティン・スコセッシの最新作というだけで心踊る方が多いと思う。バイオレンスと宗教性を見事にミックスさせるその手法は、数々の映画賞がそのレベルの高さを証明している。確かに2時間40分、全く飽きることなく画面に吸いつけられる体験は、至福のひとときと言えよう。
また、日本の俳優たちのプロフェッショナルな演技も見ものである。特にイッセー尾形!こんな暗く重苦しい作品の中で、最も邪悪な役人を演じながら、場内からは彼の言動に笑いが漏れていた。笑わせておいて、ドスンと重たいセリフを吐くその芸達者ぶりは、もしかしたら本当にアカデミー助演男優賞をゲットするかもしれないと期待させる。
さて、内容に関して言うなら、実は躊躇(ちゅうちょ)しているのはむしろクリスチャンたちの方であって、「信仰」という足かせが無い分、多くの方は大変崇高な理念を実践した宣教師たちの冒険譚(たん)として見ることができるのではないだろうか。しかもラストが悲劇的であればあるほど、彼らへ感情移入はしやすく、いかに日本の役人たちが偉そうにしているか、また腹黒さを抱えながら真面目な外国人や百姓たちをいたぶっているかを痛感することになるであろう。
自分たちで罠を仕掛けておきながら、穴に陥った外国人の罪責感を刺激し続けるやり方に、生理的嫌悪感を抱くこともあるだろう。私は見ていて、ミヒャエル・ハネケの「ファニーゲーム」を連想した。いずれにせよ、悪役は徹底して日本側である。
この映画を通してなら、人々はキリスト教に対してむしろ好感を抱き、そのみすぼらしく哀れな姿をさらす切支丹たちの姿にエールすら送るようになるのではないかと思う。
しかし一方で、見ているわれわれは2時間以上にわたって過重なフラストレーションを強いられる。善なるものが汚され、邪悪なものが光り輝く情景を見せつけられる展開では、私たちの心が躍るはずがない。これに加えて、村人役で出演していた多くの有名俳優、トレンディー女優が次々とむごたらしい死を迎えていくのだから、その憤懣(ふんまん)やる方なき思いは徐々に高まっていくこととなる。
「日本にキリスト教は根付かない。ここは沼地だ」は本当か?
だが心ある鑑賞者は、奸計(かんけい)を練った役人が発した言葉に1つの欺瞞(ぎまん)を見いだすだろう。それは「日本にキリスト教は根付かない。ここは沼地だ」という言葉である。確かに現実、キリスト教人口は全国民の1パーセント未満である。だから根付いていない、という言葉はあながちうそではない。
しかし、日本がキリスト教からどれだけの恩恵を受けたか、またどれだけ知らず知らずにわれわれがキリスト教的なるものを享受しているか、現代に立脚して過去を振り返るなら、決してこの地は沼地だとは言えないはずである。例えば教育の分野において、ミッションスクールやキリスト教系幼稚園など、明治時期以降の独自の発展は、この地におけるキリスト教の土着化の一形態だと言えるはずである。
映画は原作とは異なるラストを迎える(大丈夫、ネタバレはしませんから)。それはスコセッシ監督のこだわりだそうだ。確かにそれがないと、1988年「最後の誘惑」と同じ騒動が起こってもおかしくない。それは遠藤が日本的に「そこはかとなく」描いたものを、単刀直入に「見せる」ことで、最後に一抹の希望を感じさせる効果を発揮している(この辺りが、日本文学を西洋人が解釈することの限界を示しているのかもしれないが・・・)。
希望は潰えていない。紆余(うよ)曲折を経たその先に、彼には救いがあった、そう監督は描きたかったのだろう。なぜなら、彼はカトリック信仰を捨て切れず、いつしかその葛藤をスクリーンで昇華する道(映画監督)を選んだのだから。そういった意味では、真に「普遍(カトリシズム)」を希求した1人の人間を温かく抱擁するスコセッシ監督のまなざしが具現化していると解釈してもいいのかもしれない。
この映画をバチカンで上映するなら、当然好意的に受け止められるだろうし、決してカトリック教会を糾弾することにはなっていない。それはラストのあのシーンが出来事の全てに整合性を与えるからである。
しかし、ノンクリスチャンの方にとって、この希望の象徴がアップになって物語が終わることに混乱することだろう。それくらい「あり得ない」ものが最後に映され、映画は幕を降ろす。そしてしばしの「沈黙」。映画として完璧であるし、日本の一時代を切り取った歴史ドラマとしてもかなりのレベルだと思われるが、幾つもの「?」が飛び交うことは想像に難くない。
もっと「沈黙」を語り合いたい!
おそらくこの映画を見るなら、きっと一緒に行った誰かと語り合いたくなるだろう。実は私もそうだった。だから映画「沈黙」で講演会をしたいと考えた。もっとも、講演会といってもこちらが一方的に話すだけではなく、映画をご覧になった方、原作をお読みになった方と共にあれこれと語り合えたらいいな、と思っているのである。
これはみんなで体感し、そして自分たちに置き換えてあれこれと語り合う映画だ。いろんな刺激が講演会を通してあることを期待している。そんな会を希望する方はぜひ連絡ください。([email protected] 青木まで)
最後に、昨年末に自らに課した宿題に回答しなければならない。それは、私が勝手にキリスト教系映画を3つに区分したことに始まる。
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そこで私は ① キリスト教追体験型、② 未信者用伝道型、③ キリスト教新解釈型に分けた。では、この「沈黙」はどれに当てはまるのだろうか。
監督のスコセッシにとっては当然 ① だろう。自らの存在を問い、それをキチジローというキャラクターに投影して描いている時点で ① となる。カトリシズムを追体験する映画と言えよう。
では、観客にとってはどうか。私はこの映画に関しては、クリスチャン、ノンクリスチャンという分け方ができないと考えている。むしろ区分けするなら、「幼少期からキリスト教文化にどれだけ浸ってきたか」という峻別(しゅんべつ)になる。
西洋人を含むキリスト教文化の中で生きてきた人たち、および日本人ではあっても教会文化に幼少期からどっぷりと浸かってきた人たちにとって、この映画はかなりツイストの効いた新解釈型、③(キリスト教新解釈型映画)となるはずである。
「教義に基づくキリスト教」という西洋的な宗教の在り方に対して、本作は全く異なるアプローチがなされているからである。彼らの感性は大いに刺激され、自分の一部となっているキリスト教についてあらためて考えを深めてみたくなるであろう。
一方、それほど長い年月をキリスト教文化の中で過ごしたことのない人たちにとってはどうだろうか。これは ① と ② のどちらかを自らで選ぶことが求められる。もし ① として見るなら、さらに2つに分化する。すでにクリスチャンであるなら、自分の選択が正しかったと再認識することになる。一方、ノンクリスチャンであるなら「巨匠スコセッシの映画を見た」「話題作を堪能した」という満足感を抱くだろう。
もし初めから ② を選ぶとしたら、それは映画としての評価を越え、キリスト信仰をさらに熱心に学ぶ動機を与えることだろう。しかし、誰かがこのような解説をしてあげないと、この「沈黙」はノンクリスチャンが自分1人でこの境地に至れるほど単純な内容ではないと思う。
最後に、最もありがちな反応を紹介しておきたい。それは自覚的にクリスチャンとなり、ある程度熱心に教会へ通い、キリスト教文化を享受することを楽しみ始めている方に多く見られるパターンである。
それは「こんな反キリスト教的な映画は受け入れられない!」と判断したり、「遠藤はそもそもキリスト者ではない」などと批判するだけの方。当然、① から ③ の区別をすることを拒むことになる。私としてはこれが一番悲しい選択であると言わざるを得ない。
まあ、そんなマッチングゲームがしたいのではない。むしろこのような「語り合いたくなる」映画をこれからも鑑賞し、それをキリスト教界の敷居を下げることに役立てたい、それが牧師としての筆者の願いである。
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