世界の映画人たちに尊敬され、アカデミー賞にも輝いた巨匠マーティン・スコセッシ監督が、世界20カ国以上で翻訳され、今も読み継がれている戦後日本文学の金字塔、遠藤周作の小説『沈黙』をついに完全映像化した映画「沈黙-サイレンス-(原題:Silence)」。すでに海外では絶賛の声が上がり、作品のクオリティーとともにキャストの演技も高い評価を得ている。日本での公開をいよいよ週末に控えた16日、昨年10月に続いてスコセッシ監督が再来日を果たし、都内で記者会見を行った。
監督は、大勢集まった報道陣からの質問に答える形で、昨年11月の教皇フランシスコとの謁見の様子や、隠れキリシタンへの思い、この映画を通して現代人に伝えたいメッセージについて話した。また、同じくキリスト教をテーマにした映画で、大きな議論を巻き起こした1988年の「最後の誘惑」と本作との違いについて聞かれると、「最後の誘惑」公開後、「自分の信仰心を見失ってしまった」時期があると、これまでの自身の変化を率直に語った。会見の最後には、今も⻑崎で隠れキリシタンの伝統を受け継いでいる村上茂則さんも登壇して本作の感想を語り、スコセッシ監督と握手を交わした。
―昨年11月30日、バチカン宮殿で教皇フランシスコに謁見した際の様子について。
大変忙しい方なので、教皇が本作を実際に見たかどうかは定かではないが、小さな部屋でお会いすることができた。相手を緊張させない人で、「この映画で伝えたいことが成果として出ることを願う」と言ってくださった。「雪のサンタマリア」(南蛮絵師によって日本の技法で制作されたとされる17世紀の聖母画、日本二十六聖人記念館蔵)を見ながら、長崎やイエズス会のことなどについて話した。自分のために祈ってほしいとも頼まれた。謁見の前日には、イエズス会の300人以上の司祭のために本作の上映会を開催したが、アジアや南米の司祭が多く集まっていたので、彼らと非常に興味深い対話を持つことができた。
―隠れキリシタンから学んだこと。また、日本の宗教マイノリティーについて思うこと。
日本のキリシタンの信念と勇気には関心せざるを得ない。昨年、アジアのイエズス会司祭との対話の中で、東洋に入った西洋の宣教師は弾圧という暴力を受けたが、彼ら自身も東洋に暴力を持ち込んだのではないか、という話を聞いた。普遍的な真実としてキリスト教を持ち込んだことは、侵害であり暴力に当たる。だからこそ幕府は、日本人キリシタンを直接弾圧するのではなく、そのリーダーである宣教師にプレッシャーを与え、その高慢さを崩していくという対抗方法を見いだしたのではないだろうか。
本作も、ロドリゴの高慢さが砕かれていく過程を描いている。弾圧されたことで、誤ったキリスト教の在り方がくつがえされ、ロドリゴも一度空っぽな状態になることで、「仕える人」という真のキリシタンへと変えられていく。日本人クリスチャンは、キリスト教の教えの中でも特に、慈悲や、人間は同じく価値があるという考えに一番共感しているように思う。権威的なアプローチによるのではなく、キリスト教の女性性が一番受け入れられるのではないだろうか。
―同じくキリスト教を題材にした映画「最後の誘惑」は大きな議論を巻き起こした一方、本作はキリスト教会からの評価も高い。その違いとは。
「最後の誘惑」も本作同様、キリスト教の理念をシリアスに探求した作品だった。当時、さまざまな宗教団体に向けて鑑賞会を開いたが、ニューヨークにあるエピスコパル教会での鑑賞会後、ポールムーア大司教から次のようなお言葉を頂いた。「この作品の問うているところは面白かったが、私はこの作品が面白いと思うので紹介する。これは、信ずることとは何であるのかを問うている作品だ」。その時に手渡されたのが小説『沈黙』だった。
「最後の誘惑」が公開され、さまざまな議論が交わされる中で、私は、何かが納得いかない、何かが違うと、自分の信仰心を見失ってしまった。そんな中でこの『沈黙』を読み、遠藤に倣ってもっと深く深く掘り下げ、探求していかなかればいけないと思った。信じることとは、という問いに没入した結果の作品であるという意味で、本作は他の作品よりも私にとって非常に大切なものだ。教義的なアプローチではなく、信じること、疑うことを非常に包括的に描くことができたと思う。
―この映画のメッセージが、政治・文化的に大きくうねりのある今の時代にどうリンクすると思うか。
弱さ、懐疑心を抱えている人に伝わるとよいと思う。また、弱さを否定するのではなく、受け入れることの大切さが伝わるよう願う。弱きを受け入れて抱擁することで、強くなれる人もあれば、そのままの人もいるが、皆が皆強くある必要はない。人として生きることの真価を考えるきっかけにしてほしい。この現実社会には、はじかれた人、のけものにされる人がいるが、その人々を個人レベルで人として知ろうとする必要がある。
私が新約聖書で一番好きなのは、イエス・キリストがいやしい人々と共に過ごされたということ。イエスは、収税人や遊女などの汚らわしいとされる人々を受け入れ、彼らの中に神聖になる可能性を見いだされた。今の時代、若い世代が一番危険にさらされている。彼らは、勝者が歴史を勝ち取っていく世界しか見ていない、知らない。それはとても危ないことだ。世界のからくりがそうであると思ってはいけない。物質化した現代社会にあっても、何かを信じたいと思っている人々の心について考えなくてはいけない。
スコセッシ監督への質疑応答の後、長崎の外海(そとめ)地区で今なお隠れキリシタンの信仰を守り続けている村上さんが登壇し、監督と椅子を並べた。村上さんは、父親の跡を継いで、隠れキリシタンの指導者である帳方(ちょうかた)の7代目を務めている。
村上さんによれば、かつては40万人以上いた隠れキリシタンも、今では外海地区に2つ、五島列島に1つのグループの合計300人ほどしか残っていないという。本作を見た感想を求められると、「自分の先祖たちと思うと、涙が出ずにはいられず、感情が洗われるようだった。世界中の人々はもちろん、特に日本人に見てもらいたい」と力を込めた。
柔らかい笑顔で村上さんにあいさつしたスコセッシ監督は、「この映画が日本の文化やキリシタンの勇気を損なうことのないように描いた。忠実に敬意をもって、また、共感と慈悲をもって描こうと力の限りを尽くした。隠れキリシタンのモキチが水磔(すいたく)の刑に処される場面は、日本人キャストも米キャストも皆が涙した。本当に真剣に取り組んだ撮影だったので、私がやらねばならない1つの通過儀礼、巡礼のような感覚を覚えた」とあらためて本作の撮影を振り返り、村上さんと固い握手を交わした。
映画「沈黙-サイレンス-」は、1月21日(土)から全国で公開される。