今年3月に行われた第90回米アカデミー賞にレバノンから史上初めてノミネートされ、第74回ベネチア国際映画祭ではコンペティション部門に出品された作品が本作である。英題は「The Insult(侮辱)」。
不法建築の補修工事を請け負っていた現場監督のパレスチナ人男性(ヤーセル)と、その建築物の住人で自動車修理工場を経営するレバノン人男性(トニー)との間に生じた些細な諍(いさか)い。やがて口論の中でヤーセルがトニーに対して発した「クズ野郎」という一言が引き金となり、2人の争いは単なる「ご近所のもめ事」を超え、レバノン国内が内包する人種、宗教、社会階層の相違を浮き彫りにしていく。そして争いの舞台が法廷に持ち込まれる中で、ついにはレバノン国内を二分する一大論争へと拡大していくのだった。
本作は、見事な法廷ドラマであると同時に、負のスパイラルに絡め取られてしまった市井の人々をアイロニカルに描くブラックコメディーの要素も含まれている。しかしその底流にある根源的な火種は、個人に帰されるものではない。
争う両者は、ヤーセルがイスラム教徒のパレスチナ難民、トニーがキリスト教徒のレバノン人であった。宗教の違いと共に、政治的・社会的弱者と強者という立場の違いもこれに微妙な影を落とす。さらに、彼らの弁護士たちも腹に一物を抱えており、ヤーセルとトニーの個人的感情の対立に加え、「法律」という油を注いで争いを激化させてしまう。
しかし法廷で両者が自らの義を主張し合う中で見えてきたのは、それぞれが抱える「民族的負の歴史」であった。
パレスチナ難民であるヤーセルは、イスラエルによって国を追われ、難民となってレバノンで仮住まいをせざるを得ない。しかもレバノン政府は表向きパレスチナ寄りだが、マロン派(東方典礼カトリック)と呼ばれるキリスト教政権が実権を握っているため、イスラエルとの融和政策路線を崩す気配はない。そのため、難民に対する現政権の扱いは決して満足なものではない。こういった根無し草のような生き方を強いられ続けたパレスチナ難民は、常に内に怒りを抱えつつ半世紀以上耐え続けている。内に秘めた不安や恐れを隠し、「パレスチナ人」としてのアイデンティティーを必死で守っているのである。
一方、レバノン人であるトニーは、レバノン政府がパレスチナ難民を受け入れ続け、彼らの居住を認めていることを決して快く思っていない。だがそれを表立って非難することもできない。なぜなら同じパレスチナ系として、人道的にも彼らを受け入れることが「正しいこと」だからである。パレスチナ難民を非難することは、今で言うところのPC(ポリティカル・コレクトネス=政治的正しさ)に抵触してしまう。相手を厄介者だと思いながらも、厄介者扱いできず、表面的に「同胞」として接しなければならない矛盾。これが彼らの怒りの源泉であった。
だがトニーの場合、これに加えてもう一つ大きな傷を負っていることが裁判の過程で露わになる。それは、パレスチナ難民が単なる「弱者」ではなく、時として暴力を振るう側に立つ「強者」であった歴史を人々に思い起こさせることにもなった。
そしていつしかヤーセルとトニーは、パレスチナ難民側とレバノン人側の怒りを代弁する存在へと祭り上げられていく。両者はそのうねりの高まりに戸惑いながらも、この出口のない争いに向き合わざるを得なくなっていくのであった。
彼らに勝利はあるのか。それはヤーセル(パレスチナ難民)かトニー(レバノン人)か。またそれは、「最終的な解決=希望」を見いだすことになるのだろうか。
観終わって一つの聖句が思い浮かんだ。
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。(詩編133:1)
これは2017年1月に米国のドナルド・トランプ大統領が就任演説で引用した聖書の言葉である。さまざまな人種、民族が入り乱れる「アメリカ」という国をまとめ上げるために用いられたが、結果として米国に大きな亀裂を生み出してしまった。その流れはいまだに変わっていない。それどころか、今年5月には米国の在イスラエル大使館をエルサレムに移転させることで、中東問題の解決をさらに遠のかせ、中東世界に対しても大きな亀裂(米国・イスラエル陣営に付くか、パレスチナ側に付くか)を生じさせてしまった。イスラム勢力が各国内で安定的でないため、米国がその間隙をぬって新たな世界ルールを構築したという見方もできるが、火種をばらまいたという結果は変わらないだろう。
この聖句がヘブライ語聖書(キリスト教から見れば「旧約聖書」)にあることは重要である。なぜなら、ヤーセルもトニーもこの言葉を「聖典(経典)」として受け入れる宗教的立場にあるからである。しかしそれを成し得ない。個々人で付き合うのなら簡単だが、彼らを規定する民族、宗教、そして国民性がこれに影響を与えるとき、彼らは素直に手を握り合うことができない。これが人間の現状である。人は知らず知らずに過去に積み上げたもの(時としてそれは個人では抗〔あらが〕えない民族的な傷跡)を背負って生きるよう仕向けられているのだ。もし人が生まれながらにして罪人であるというなら、それはこのような民族、宗教としての歴史、過去、そして傷を背負ってしまうことかもしれない。
だから新約時代、イエスは弟子たちからの問い掛けに対し、次のように語ったのだろう。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:2〜3)
この場合、このイエスの教えと、その後のキリスト教とは切り離して考えるべきだ。弟子たちの問い掛けは「人はどうしても過去から逃れることはできないのか」という根源的な「罪性」に関するものと捉えることができる。しかしイエスは丁寧に「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と断りを入れ、過去の縛りを断ち切る力が神にはあることを示す。
ここに歴史的に手あかの付いた「キリスト教」という宗教ではなく、「イエスの教え」の斬新さがある。それなくしては、人は前に進めなくなってしまう。特に本作の2人のように、お互いに相手の急所を知っており、それを怒りに任せて言い放つ(侮辱する)ことで互いを傷つけ合うような場合は特に、である。
劇中、係争中の2人が裁判所の外で遭遇する場面がある。ヤーセルの車が故障し、エンジンがかからない。その時、前を通り過ぎたトニーは車を引き返し、黙ってヤーセルの車を修理してやる。2人の間に会話はない。しかしお互いの顔に変化が訪れたことは、観ている私たちには明らかだ。
この場面で私は思わず涙してしまった。ここに、一瞬だけ過去を忘れて寄り添おうとする人間のリアルな姿がある。今の今まで法廷でののりし合っていたのに、次の場面で、分かり合うチャンスを手にした2人の男たち・・・。これこそイエスが語る「神の業がこの人に現れる」瞬間ではないか。
そう考えると、これはレバノンというどこか遠い国の話ではなく、私たちにも起こり得る些細で身近な人間模様ということもできるだろう。
中東問題、宗教間対立、人間の業・・・さまざまなことを考えさせてくれる今年一番の傑作であった。ぜひ劇場でご覧いただきたい。そして、語り合いたいものだ。
8月31日(金)TOHOシネマズ シェンテほか、全国順次公開。
■ 映画「判決、ふたつの希望」予告編
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