1950年代からシャンソン界の女王として君臨したフランス人歌手バルバラ。その半生を幾分トリッキーな見せ方で描いた本作は、わずか99分ながら、バルバラという人物の人となり、業績、そして半生をしっかりと観客に伝えてくれる快作である。
監督は、自身も俳優として本作に登場するマチュー・アマルリック。フランス人の彼は、ハリウッド映画の幾つかにも出演している。例えば、スティーブン・スピルバーグ監督の「ミュンヘン」や007シリーズ「慰めの報酬」で、名バイプレイヤーぶりを発揮している。
アマルリック監督が自国の歌姫バルバラの映画化を打診されたとき、これを伝記者として描くことは、自分にはとてもできないと思ったという。そこで思いついたのが、バルバラの伝記映画(架空の作品)を撮影しているスタッフ、キャストの様子を描くという「入れ子構造」スタイルであった。これによって、メタフィクショナルな視点が得られるため、結果的にアマルリック監督の自由度が増すことになる。
しかしこのやり方は、観客に少なからず混乱を与えることになる。例えば、冒頭からバルバラが感情的に動き回り、やがてピアノの前で歌い始める。その歌が途中まで進むと、急にカメラが引き始め、撮影班の姿を捉え始める。監督の「カット」という声と共に、今の演技はどうだったかなど、キャストと監督の会話が何の前振りもなく交わされるシーンにつながっていく。
本作でバルバラを演じているのはジャンヌ・バリバール。彼女は2003年に離婚するまで、アマルリック監督の妻であった人物である。バリバールは本作で、バルバラ本人はもとより、バルバラを演じることになった女優の2役を演じなければならないのであった。
例えば、バルバラとして歌を歌い、バルバラの心情を演技で表現した後、今度はバルバラを演じていた女優が素に戻って自身の演技について語るシーンを演じる、ということである。
一言で言うと「ややこしい」作品である。観客に「今はどんなシーンなのか?」と考えさせ、一瞬たりとも気を抜かさせないテンションの高い作品であるともいえる。目の前で歌っている女性はバルバラなのか、「バルバラを演じている女優」なのか。そして両者の切れ目はどこにあるのか。
いつしか観客は、バルバラを演じるバリバールの視点で物語を追っていくことになる。この幻惑体験は、デビッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」や「ツイン・ピークス」で味わった浮遊感に似ている。訳の分からない五里霧中な世界観に没入し、何か変だと思いながらもその甘美な世界観がいつしかクセになっていく――。そんな快感が本作にも取り入れられているようだ。
バルバラを演じるバリバールが、次第に自身を「バルバラそのもの」と信じ込んでいく様は、バルバラというシンガーの偉大さを私たちが知るのに最も適したやり方である。1960年代末に生まれた私にとって、バルバラという名前も、また彼女の歌も聞いたことがなかった。だが本作を観ていくうちに、彼女の素晴らしさに魅了されつつある自分を意識するようになった。映画を観終わった後、ネットで「バルバラ」と打ち込んでいろいろ調べてみたことがその証左である。
「入れ子構造」というアマルリック監督の採った演出法は、確かなメッセージとなって観客に伝わったと言えよう。
観終わって、ふと聖書の次の言葉が浮かんできた。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献(ささ)げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤ2:20)
使徒行伝によると、歴史上初めて「クリスチャン」と呼ばれたのはアンテオケのキリスト者たちであった(使徒行伝11章26節参照)。私たちは「クリスチャン」という用語を上品に「キリストに似る者」と言い換えているが、実はこのニュアンスは当時の人々の実感とは異なっている。なぜなら、寝ても覚めても「キリスト、キリスト」と言い張って彼の生きざまにのめり込んでいく彼らの言動に対し、アンテオケの住民たちはあからさまな軽蔑の意味を込めて「クリスチャン」とあだ名を付けたのである。だから当時の住民たちのリアリティーをきちんと加味したあだ名に言い換えるなら、「キリスト・バカ」ということになろう。
これを当時のキリスト者たちは十分理解していた。そしてこの名称と本質を換骨奪胎したのである。
本作のバルバラと、女優バリバールの関係が「入れ子構造」であることは上述した通りである。そして類比的に考えるなら、クリスチャンとイエスとの関係もこの「入れ子構造」をなしている。なぜなら現代に生きる私たちは、肉体を伴ったイエス・キリストと出会うことはできないからである。それはパウロとて同じことだった。
彼は一度もイエスに出会っていない。しかし彼は力強くガラテヤの信徒への手紙で「キリストがわたしの内に生きておられる」と告白している。この意味をクリスチャンでない方々にも分かりやすく説明できるとしたら、それは本作のような映画を通してであろう。
私たちがもしクリスチャンであるなら、社会的、第三者的立場から見れば、私たちは「キリスト・バカ」である。しかしそれを内面から見つめ直すなら、そして同じ「入れ子構造」を持った人々(クリスチャンコミュニティー)から見るなら「私はキリストを抱き、彼と共に今を生きている」ということになろう。
映画という一見畑違いな分野ではあっても、その本質において同じ「バカ(一途に恋い慕い、対象の生き様を自らも生きること)」な在り方を示してくれる本作は、キリスト信仰を抱く者たちにきっと何らかの刺激を喚起するものとなるであろう。
11月16日(金)から、Bunkamura ル・シネマほか全国順次公開。
■ 映画「バルバラ セーヌの黒いバラ」予告編
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