「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」。映画のタイトルである。辞書などで調べると意味はさまざまだが、本作に通じる意味としては次のようになる。
「日々について良し悪しを考え一喜一憂することは誤りである。常に今この時が大切なのである。あるがままを良しとして受け入れるとき、毎日が好日(良い日)と言えるようになる」
出典は中国の仏教書『碧巌録』である。
映画の原作は、人気エッセイスト・森下典子が、約25年にわたって茶道教室に通い続けた日々をつづった随筆集である。主演は黒木華。助演的な役割で樹木希林、多部未華子が出演しており、多部は華やかな現代っ子を演じている。
同い年の大学生、典子(黒木)と美智子(多部)はいとこ同士。ひょんなことから近くの茶道教室へ通うことになる。彼女たちが武田先生(樹木)から教えられたのは、すべてが形式化された茶道の作法。畳を何歩で歩くとか、どこで立ち止まりお辞儀をするとか、抹茶茶碗をどう持つとか、そのような圧倒的な情報量に裏打ちされた「作法」を少しずつ教え込まれていく。
何の作法も知らない門外漢からすると、たかがお茶を飲むだけなのにどうしてそんな細かい決め事があるのか、と不思議に思うはず。事実、映画の中で2人は、初日から武田先生に「どうしてこんなことをするのですか?」と、決められた動作の「意味」や「本質」を問う。すると武田先生はこう返答する。
「意味なんて分からなくていいの。お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ」
映画は、武田先生が語るこの言葉通りの人生を歩む典子の生き方が、日本の四季折々の風景に彩られてつづられていく。
本作の主人公である典子は、将来、何をしたいのかを明確に見いだせないまま、何となく不安を抱えて生きる女性だ。そんな彼女が茶道という「型」を身に着けることで、形の中に少しずつ「心」を込められるようになっていく成長物語が本作である。
大学卒業後、自分より先に茶道をやめ、結婚してしまった美智子をうらやましいと思いながらも、「では自分は一体何者で、何がしたいのか」と模索する典子の姿は、現代の若者像とかなり重なるところがあるといえよう。
だが、典子が30歳を越えるころ、一つの転機を迎える。そして「あの瞬間」が訪れることになる。それは、かつて美智子と初めて武田先生の家を訪れたときに見つけた横額の言葉「日日是好日」の本当の意味を彼女が知るときであり、同時に、どうして最初は心が伴わなくとも形から入る必要があったのかを悟る瞬間でもあった。
私は本作の中に、日本人が初めて教会に通うようになり、やがてクリスチャンとなって教会生活を送るようになる姿を見いだした。本作は、見事なまでにそれらのメタファーとして見ることができる。
言い換えるなら、日本人がまったくあずかり知らぬ「新しい世界」であるキリスト教に出会ったとき、その違和感を乗り越えて、今まで知らなかったその世界をどうやって自分のものにしていくか、のプロセスが本作には描かれているように思われる。
彼女たちは「ほんの出来心」で茶道教室に通うようになる。特に典子の場合、きっかけは「いとこの美智子がやるから」というものだった。「あの子がやるなら私も」の感覚である。
考えてみると、日本人が教会に足を運ぶのも、そのほとんどが「よく分からないけど、あの人が通っているから行ってみよう」というものではないだろうか。もちろん、自ら何かを求めて教会の扉をたたく人もおられるであろうが。
そして初めて教会の礼拝などに参加すると感じるカルチャーショックがある。それは茶道で決められた作法を指導されることに似ている。「どうしてそんなことしなきゃならないの?」というものである。
やがて教会に来続けると、その在り方になじみ始める。そしていつしかそこが自分にとっての居場所となる。だが中には、同じように教会に通っていたのに離れていく人も出てくる。それぞれに事情があるため、それをとやかく言えない。そして「自分はどうするか」と問われるようになる。
劇中、典子も一度は「私もお茶教室には行かない」と言い張る場面がある。でも最終的に彼女は教室へ足を向ける。そして、いつものように同じ形を踏襲しているだけなのに、熱いお湯と冷たい水の音の違いを聞き分けることができるようになる。「何か」が形の中に入り込んでくる感覚を覚えたのであった。
茶道と出会ってからの十数年を振り返ると、典子の人生にはいつもそこに「お茶」があった。失恋したときも、大学を卒業したときも、就職がうまくいかなかったときも、新しい出会いがあり、結婚へと進むときも、すべての時に「形」に立ち返っていたことに気付く。畳の上に正座し、一挙手一投足に気を配る作法も、いつの間にか「自分のもの」となり、自分の感情の揺れを茶道教室で感じながら、慰められたり、悲しくて涙したり、喜んだり、笑ったりする中で「生きてきた」ことに気付くのである。
大きな人生の転機に出会ったとき、典子は初めて「日日是好日」を体感する。それは単に辞書や誰かから教えられた意味を頭で理解するのとは異なる。いうなれば「言葉を体験する」ということである。
映画を観終わり、次のような聖書の言葉が浮かんできた。
これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。
(詩篇118:23〜24、新改訳)
「日日是好日」とは、表面的にいうなら「毎日が良い日だよ」となる。しかし私たちの現実には、到底そう思えない時もある。それを無理して「良き日!」と告白することではない。目の前に起こる良きことも悪しきことも、すべて受け止め、その一瞬一瞬を全身で受け止めるなら、たとえ悲しくつらい時期だったとしても、後から振り返ると「すべて良き日だった」と思える瞬間が来る、ということである。
このような受け止め方を本当にできるのは、やはり一日一日が「主によって設けられた日」と信じることではないだろうか。映画のクライマックスでは「日日是好日」を生きてきたことを知る典子の感動が描かれている。
本作が伝えるのと同じことが聖書の言葉にもあるのだ。幾度となく聖書を読み、毎週のように牧師が礼拝で説教を語るのはなぜか。それは、字面として理解していた聖書の言葉を、各々にとって「生きた体験」とするためである。
「こんな言葉を知っている」ではなく、「この言葉を体験した」となることが、クリスチャンとしての成長であり、そのような体験の連続こそ、人が毎週教会へ通うことの意味である。だがそれは最初から分わからない。だから形があるのだ。
映画では主人公が冒頭部と最後でこんなことを言う。
「世の中には『すぐわかるもの』と『すぐわからないもの』の二種類がある。すぐにわからないものは、長い時間をかけて、少しずつ気づいて、わかってくる」
これは真理だろう。そんなことをゆったりとした時間の流れで教えてくれるのが本作であり、ここで語られている真理は、実は聖書の世界観と非常に近いものであると私は受け止めた。
そもそも茶道はキリスト教の聖餐式が日本的に派生したものだと聞く。だから教会でパンとブドウ酒を頂く代わりに、和菓子と抹茶を恭しく食することになったとも。
そうであるなら、もともと同根であったものが時代と文化に土着化することで分化したと捉えてもいいではなかろうか。
穏やかな秋の日に、ほっこりしながら誰かと語り合いたくなる一作である。夏休み映画のように刺激的で圧倒的な絵柄で魅せる作品ではない。しかし、まるで一筋の湧き水を頂いたような、そんな爽やかな感動が体全体に広がっていく作品であることは間違いない。
■ 映画「日日是好日」予告編
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