2018年2月21日のことは今でも覚えている。東京へ出張していた私の元に、娘から「大杉漣が亡くなった!ヤバい!」とメールが来たからである。10代の娘が大杉漣を知っていたことも驚きだったが、何よりもあの名バイプレーヤーが急逝されたことに、私は帰りの新幹線で放心状態に陥ってしまった。
北野映画のヤクザ役もよかったが、個人的には「シン・ゴジラ」のとぼけた総理役がツボであった。政府の閣僚会議でゴジラの出現をどう捉えるかについて議論している場面だ。笑っていいのか、真剣に見入るべきか、観客に戸惑いを与える彼の演技はまさに「名バイプレーヤー」の名に恥じないものであったと思う。
そんな大杉漣の初プロデュースにして最後の主演作(となってしまった)が本作「教誨師」である。映画パンフレットには、教誨(きょうかい)師について次のように説明されている。
「教誨師とは・・・刑務所や少年院等の矯正施設において、被収容者の宗教上の希望に応じ、所属する宗教・宗派の教義に基づいた宗教教誨活動(宗教行事、礼拝、面接、講和等)を行う民間の篤志の宗教家である」
ちなみに昨年の調査では、この教誨師の任に当たる宗教家の数は2千人。そのうち仏教系が66パーセント、キリスト教系が14パーセントとなっている。
大杉漣が演じる本作の主人公、佐伯はキリスト教(プロテスタント)の牧師であり、教誨師になって半年という設定である。教誨師の定義にもあるが、これはまったくのボランティアであり、しかも収容されている者たち(本作の設定では全員が死刑囚)からの要望で時間を取るということになる。
そういった意味では、本作で佐伯牧師が行う行為は100パーセント死刑囚のためであるし、彼らのいわば「最後の願い」をかなえるために教誨師は存在しているということになる。つまり純粋な宗教的行為がそこで行われているのである。
監督の佐向大(さこう・だい)は、大杉漣のマネージャーの父親が教誨師であったことから、東日本大震災後の日本で「生きる」というテーマを追求するために、本作を企画したという。
本編を拝見してまずびっくりしたのは、上映時間約2時間のうち、95パーセントが刑務所の面会室での会話劇であるということだ。佐伯牧師の教誨を受ける死刑囚6人が、入れ代わり立ち代わり彼と向き合い、ひたすら会話を続けるだけなのである。後半、物語の構成上で数分間だけ過去の思い出に立ち返る場面があるが、それ以外はほぼ面会室での描写となる。
では、2人の人間が向き合ってただ語り合う(中には、初めはまったくしゃべらない死刑囚もおり、その時は佐伯牧師のモノローグと化す)だけだから、とても退屈でつまらないのか、というとまったくそうではない。
くだらない無意味な会話から始まる6人の死刑囚との面会は、それぞれのエピソードが巧みに折り合わされることで、その次を知りたくなる構成となっている。加えて、言葉の端々や佐伯牧師のアドバイスなどから、どうしてこの人物が死刑囚とならなければならなかったのか、という背景が透けて見えるようになっている。
面会を2回、3回と重ねるうちに、目を見張るような変化を遂げる者もいる一方、まったく佐伯牧師の話が耳に入らず、むしろ自分の主義主張に凝り固まって内向的になってしまう者もいる。
俳優陣の芸達者ぶりと、物語の根底に流れる「死へ向かう人々のためにできること」という重いテーマから、私はスクリーンから目を逸らすことは愚か、息を吸って吐く、という営みすらはばかられるような緊張を強いられ、食い入るように物語に没入することができた。
考えてみると、「死刑囚のための教誨」という行為は究極のミーニングレス(無意味さ)を象徴しているように思える。特に社会的貢献という立場からするなら、彼ら死刑囚が刑期を終えて社会復帰するわけでもなく、ただ死へ突き進む者のために寄り添う、という行為は一見無駄なように思える。劇中「どうして教誨師なんかやってるの?」という問いを発する者もいた。
そんな彼らに共通しているのは、死を目前にしているからこそ、変な取り繕いを捨てた「むき出しの生」を佐伯牧師にぶつけてくるということだ。ある者は後悔の念にとらわれ、自分の人生の無意味さをとうとうと語る。ある者は「自分は間違ったことをしていない」と、自分勝手な論を自分に酔いしれながら語る。別の者は、最初は取り繕って虚勢を張っているが、いざ死刑が行われるかもしれないとなると、見る影もなくおびえた姿をさらけ出す。
しかし、それは死刑囚側だけの変化ではない。彼らの話を聞き、共感したり反発したり、質問に一生懸命答えようとする佐伯牧師自身もまた、自らを防衛するために着飾っていたものを身ぐるみはがされる体験をすることになるからだ。
「どうして自分は牧師になったのか」「なぜ教誨師をやっているのか」という存在論的な問いに向き合う中で、彼もまた「むき出しの生」を実感することになる。
本作で描かれているのは、一見すると、「おくりびと」「ボクは坊さん。」で扱われているような特殊な職業人の日常を描いた啓発ムービーのようにも見える。確かに宗教性に彩られた「教誨師」という働きを垣間見ることができるという点ではそうだろう。しかしその本質は、約2時間ほぼ全編で交わされる圧倒的な会話量にある。無駄な話。無意味な会話。自分勝手な理屈。徹底的に自己否定的な世界観・・・。しかしそれらすべてが、まるでジグソーパズルのピースのように収まるところにはめられていくなら、浮かび上がってくる絵は、私たちが想像していたものとはまったく異なる絵柄となる。
ただ死に向かって突き進むしかない人々のドラマであるからこそ、そこに花火のように一瞬だけ垣間見せる「むき出しの生」をいとおしく思えるのだろう。各々が抱える問題や欠陥、もう後戻りできないからこそ痛烈に襲われる後悔の念・・・。これらをかけがえのないものとして受け止めることこそ、この映画を観た私たちの使命なのかもしれない。
劇中、一人の死刑囚が文字を書くことを覚える。その死刑囚が映画のラストで佐伯牧師に短いメッセージを書き残す。この言葉に私たち観客は心震わされ、考えさせられることだろう。
そのメッセージは、「○○教」というような歴史的宗教遺産の蓄積から生み出された教理や教義の対極に位置するものである。しかしこれに向き合う生き方こそ、真の「宗教性」といえるだろう。
本作は決してエンターテインメント作品ではない。観終わって胸がスカッとするものでもない。牧師である私は観終わって、「お前も同じ牧師としてどうか」と、2千年前に私たちのために命を削り、差し出されたお方から語り掛けられているような気がした。
映画「教誨師」は10月6日(土)から、有楽町スバル座、池袋シネマ・ロサ他で全国順次公開される。
■ 映画「教誨師」予告編
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