1970年代、15歳で北アイルランドのテロ組織アルスター義勇軍(UVF)のメンバーになったヒュー・ブラウン氏。後に回心し、宣教師として来日。現在、兵庫県の日本伝道隊西播磨キリスト教会の牧師として、少年院や刑務所での講演や教誨(きょうかい)師としての働きを続けている。著書『なぜ、人を殺してはいけないのですか』(幻冬舎)もあるブラウン氏に話を聞いた。
――幼少期はどんな生活を?
11歳になるくらいまでは両親と一緒に教会にも通っていました。北アイルランドの習慣として、日本の「お宮参り」のように幼児洗礼を受けていたのです。
――何歳でテロ組織に?
15歳の時です。学校を卒業してすぐは工場の技師見習いのような仕事をしていましたが、その時の同僚に「テロ組織に入らないか」と誘われて入りました。
――特に強い意志はなかった?
当時の北アイルランドもそうでしたが、紛争地でテロ組織はある意味、自分たちを守ってくれるヒーローなんです。特に僕がいたUVFは、入りたいから入れるという組織ではなく、勧誘がなければ入れない組織だったのです。ですから、勧誘された時は誇りに思いました。
――家族にご相談は?
相談なんて、とんでもない。家族はもちろん、周囲には秘密なのです。昼間は普通に仕事をしていて、夜中に強盗や暗殺といった活動をするのが私たちの生活でした。テロ組織にいることがバレてはいけませんから、カムフラージュするためにも仕事はしていたのです。
――組織に入ってからは、どんな活動を?
まずは武器や爆弾の使い方を教わります。私が入ったのは、15~20歳のメンバーがいる少年部隊でした。最初は、武器を運ぶ仕事や強盗の手伝いのようなことから始めました。
――敵のことは憎かった?
いろいろな人がいると思いますが、僕は初めはそこまで思いませんでした。ただ、友人や親類が紛争に巻き込まれて敵の手で殺されたりすると、やはり相手のことがだんだん憎くなっていきますよね。
――現在、中東を中心に、テロ組織による犯罪が国際問題になっています。メンバーになっている人たちの気持ちが理解できますか。
自分の家族や友人を殺されたりしたら、敵(かたき)を討ちたいと思う気持ちは分かりますね。それはテロ組織に限らないのでは・・・。日本でも殺人事件が起こると、被害者遺族は「極刑を」と言いますね。
――確かに難しいことですね。
だから、人はイエス様なしでは生きていけないのです。人を赦(ゆる)すということは、とてつもなく難しいことなので。
――テロ組織にいた時にいろいろなことがあったと思います。一番心に残っていることは?
1つ選ぶとしたら、双子の弟と一緒に対立するテロ組織に捕まったことです。2人とも拉致監禁されたのち、足を拳銃で撃ち抜かれました。奇跡的に命は助かりましたが、医者に「もう歩けないかもしれない」と言われていました。しかし、これも神様が癒やしてくださったのですね。今も普通に歩くことができています。
――回心のきっかけは?
18歳の時、銀行強盗に押し入り、警察に捕まりました。裁判の結果、懲役6年が決まりましたが、英国の法律では、きちんとルールにのっとって受刑生活を送っていれば、50パーセントの懲役で済みます。僕の場合は3年ですね。受刑中は、同じテロ組織の仲間と同じ刑務所に入れられます。ですから、刑務所の規律ではなく、引き続き組織の規律に従って生活しなければなりません。
受刑生活もあと半年となったある日、刑務所の中で映画「ベン・ハー」を観たのです。はやりの映画でしたし、暇つぶしくらいの気持ちだったのですが、これが僕の大きな転機になりました。映画の中で聖書の言葉が語られたのです。
(イエスは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(1ペテロ2:24)。
罪のない神の御子を十字架につけたのはこの私だと思いました。それはテロ組織にいたからということだけではなく、それまでの20年間、好き勝手に生きてきたことへの後悔というか罪の意識ですね。
――獄中で回心を?
はい。テロ組織のメンバーがクリスチャンになるなんてことは絶対に許されないことです。そんなことがボスに知られたら、きっと殺されると思っていました。僕が出所する数日前、思い切ってボスに、自分はクリスチャンになると伝えました。散々脅されて、もう命はないと思っていました。すると出所前夜、ボスが刑務所にいる全員の前に私を呼び出したのです。「いよいよか。ここで殺されるんだ」と思いましたが、どういうわけか、その場でボスは僕に握手を求めてきたのです。僕の揺るがない思いが伝わって、もうテロ組織に戻らないと悟ったのだと思います。最後に、「出所したら、クリスチャンとして頑張ってくれ」と言ってくれました。
――出所後、神学校へ行かれたのですか。
はい。出所した翌日から私は、母親の教会の早天祈祷会に行って、毎日祈っていました。自分の進むべき道を神様に示してほしいと思っていましたから。ある日、夜中に突然、イザヤ書52章7節の御言葉が示されたのです。
いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。
「平和の福音を知らせる者になりなさい」と神様から召命を受けました。しかし、どこでだろうと思いながら、続けて祈っていました。
――なぜ日本へ?
正直、今まで日本に特別な興味があったわけではありません。先進国で、最新の家電があって、車の産業が有名くらいのイメージでした。しかし、イースターの時にちょうど大きな聖会があり、そこで日本人牧師が宣教報告をしたのです。彼は使徒言行録16章9節から、「わたしたちを助けてください」という言葉を使って話をしました。これを聞いて、私の行くべき場所は日本ではないかと思ったのです。そして、神学校に入学する時の面接では、はっきりと「私は日本に宣教師として渡りたい。日本で平和の福音を伝えたい」と話しました。
――いつ日本へ来たのですか。
1985年1月15日に初めて日本の地を踏みました。神様の御心に従うために、私は必死で日本語の勉強をしました。徐々に日本の生活にも慣れ始めた頃、刑務所伝道の道を与えられたのです。少年院や刑務所などを回り、受刑者たちと直接話して励ましてきました。94年からは、神戸刑務所の教誨師としての務めを担っています。神戸刑務所は累犯刑務所です。多い人で20回以上、刑務所の出入りを繰り返している人もいます。薬物犯罪の人、また暴力団組織の人も多いです。彼らの気持ちはよく分かるのです。彼らこそ、神様の救いに近い人だと私は思います。刑務所の外で暮らす人は、「あなたは罪人です」と言っても、なかなか分からないでしょう。しかし、彼らは身をもって「罪」を理解していますから。
――今後もこの活動を?
そうですね。神様の計画に従うだけです。平和の福音を伝え続けていきたいですね。