映画は映画館で鑑賞するもの。そう思ってきたし、今もその考えは変わっていない。しかし近年、ネット配信の映画が多くなってきたことも否めない。最近、ネットフリックスに登録し、そこでしか観られない映画群を鑑賞してみた。
そもそものきっかけは、メキシコ人のアルフォンソ・キュアロン監督による「ローマ」を鑑賞したかったからである。今年のアカデミー賞では、最多の10部門でノミネートされ、外国語映画賞、監督賞、撮影賞の3部門で受賞した秀作である。
ネットフリックスでは、登録後の1カ月間は無料視聴ができるため、あれこれと映画をザッピングする機会が増えた。すると「ローマ」同様にネットフリックスでしか観られない作品が多くあるではないか。その中には「隠れた傑作」が多く存在している。
例えば、すでにレビューを書かせていただいたが、ポール・グリーングラス監督の「7月22日」。タイトルは平凡だが、中身はものすごい。ちなみにこれは「私の2018年ベスト1作品」となった。また「ボーダーライン」のテイラー・シェリダンが脚本を書いた「最後の追跡」。これも手に汗握る一作であった。
そんな名作ぞろいのラインナップに、およそ似つかわしくないタイトルを発見した。「神の日曜日」である。思わずクリックし、予告編を観てみた。面白そうだ。そう思い、本編を視聴し始めた。105分の中編の作品で、一気に観てしまった。そして何度も鑑賞する「忘れられない一作」となった。
主人公は、米国のペンテコステ派の牧師であるカールトン・ピアソン。彼は、ペンテコステ派の大伝道者として知られるオーラル・ロバーツの片腕として仕え、ロバーツが設立したオーラル・ロバーツ大学でも教鞭を執っていた。さらに自身も教会を開拓し、1990年代に6千人規模のメガチャーチへと成長させた実在の人物である。言うなれば、当時最大の「福音説教者」の一人であった。
そんな彼に大きな転機が訪れる。それは、テレビでアフリカの子どもたちが戦争や飢餓のために犠牲になっていくドキュメンタリー番組を観たことであった。彼の中にふとある疑問が浮かぶ。
「彼らのように福音を聴く機会がなかった者たちは、死後どこへ行くのだろうか」
「イエス・キリストを受け入れずに死んだ者は、聖書が語るように地獄へ行かなければならないのだろうか」
さらに時期を同じくして、服役中の叔父が自殺したとの報を受ける。この叔父の所へ何度も足を運んでいたカールトンは、彼がキリストを信じないで死んでしまったことに心を痛める。
「今、叔父はどこにいるのか」
「自ら命を絶った者は本当に地獄へ行くのか」
「では、彼を地獄へ追いやったのは自分ではないのか」
「神はそんな『現実』をどう見ておられるのか」
思い悩んだカールトンは、ある時「神の声」を聴く。それは「神はすべての人が天国へ行くことを願っておられる」というものであった。その感動と喜びをつかんだ彼は、その体験を説教の中で触れる。そして「福音を聞いたことがない者であっても、神の恩寵によって彼らは天国にいる」と宣言してしまう。
これを聴いていた多くの会衆は戸惑い、やがてこう言い始める。「カールトンは、地獄が存在しないと主張した。彼は異端に陥った」と。
その後、彼の教会は最盛期の4分の1に落ち込み、大学で教鞭を執る道も閉ざされてしまう。盟友であった役員たちも去り、彼は牧師(厳密には、チャーチ・オブ・ゴッド・イン・クライストのビショップ)を辞任させられてしまう。
私は鑑賞後、カールトンが教鞭を執っていた1990年代にオーラル・ロバーツ大学の学生であったナッシュビルの友人に連絡してみた。「カールトン・ピアソンという人を知っているか」と。するとすぐさま返信があった。「彼は地獄を否定した異端者。かつては福音伝道者であったが、その道から外れてしまった人。現在、テキサス州で大きな異端教会を形成している」。やはり「異端者」「地獄否定論者」として、キリスト教の表舞台から切り捨てられた人のようだ。
映画の主人公がカールトンであるため、どうしても彼寄りの論調で物語は進む。そのため、福音主義の正統性を叫ぶ者たちが多少常軌を逸した言動をする場面が盛り込まれている。その点はバイアスがかかっていると思わなければならないが、おおむね彼が体験したつらい出来事がベースとなっているようである。彼の心情は、同じ牧師として一定の理解はできる。「一人でも多くの人を福音に導きたい」という願いの前提は、「目の前のすべての人が救われる」となるからである。
映画は私に2つのことを教えてくれた。1つは、聖書主義に基づく神学議論には、残酷な一面があるということ。もう1つは、カールトンを主人公とした映画が製作され、しかもネットフリックスで公開されたという事実である。
前者は、対立関係にある両者が聖書の言葉に基づいて議論を展開することの不毛さを教えてくれた。キリスト教の歴史を振り返ってみれば分かることだが、歴史上残酷な所業はほとんど「神の名の下に」行われている。特に聖書研究がここまで進み、特定の研究的立場にない者でさえ聖書をひもとく権利が与えられた現代、「万人祭司」ならぬ「万人聖書研究者」という一面は決して否定できない。建設的・創造的に他者と何かを作り上げる際には、これ以上ないくらい有益であるが、逆に相手を打ち負かすために聖書を用いるなら、これ以上ないくらいの悲惨な結果を招くということである。
少なくとも映画に限って見るなら、カールトンは「地獄は存在しない」とは語っていない。しかし取りようによっては確かにそう受け止められる。そして私の友人のコメントにあるように、今なおカールトンは「地獄否定論者」としてのレッテルを貼られてしまっている。
ここで後者の事柄が生きてくる。この物語は、おそらくキリスト者以外の者が観るなら、事の本質を理解することができないだろう。言い換えると、重箱の隅をつつくような議論にしか思えないということである。
どうしてこのような映画が製作され、ネットフリックスで公開されたのか。世の多くの視聴者は、カールトン側にも、ロバーツ側にも加担しないだろう。むしろこのような対立が起こるキリスト教界、ひいては宗教全般に対して冷ややかな目を向けることだろう。そういった意味で、本作はシリアスな形式を取りながらも、アイロニカルに満ちたビター・コメディーと人々には映る。それは日本の視聴者がネット上で公開している感想を見ると一目瞭然である。
劇中、幾度となく聖書の言葉が引用される。しかしこれほどまでにむなしく響く聖句は今まで聞いたことがない。それは相手を批判し、非難する根拠として用いられているからである。同時に、現代のキリスト教界、特に日本のキリスト教界が、カールトンの出来事を他人事と決め付けることはできないとも思わされた。異端はよくない。しかし「あなたは異端だ」と相手を責める様を見せることは、これから信仰を持とうとする未信者にとってもっとよくない。
鑑賞後、自分たちはどうか、教会の在り方は社会に対して、ノンクリスチャンに対して開かれているか、いろいろ議論したくなるだろう。ほとんど日本では顧みられない作品ではあるが、だからこそキリスト者必見の「キリスト教映画」であることは間違いない。
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