本作「輪違屋糸里(わちがいやいとさと) 京女たちの幕末」は、浅田次郎の新選組時代小説『輪違屋糸里』を原作とし、新選組筆頭局長の芹沢鴨暗殺事件を、当時の女性たちの立場から描いた作品である。時代的背景を丁寧に字幕で説明してくれるため、幕末に関する知識がなくても大体の物語は分かる。若い世代にも鑑賞してもらいたいと願う製作者側の意図がそこに透けて見える。
幼き頃、京都の花街・島原に売られてきた少女・糸里(いとさと)は、一人前の芸妓(げいぎ)となるべく厳しい稽古に耐える日々を過ごしていた。憧れは「太夫(たゆう)」という地位に上り詰めること。芸妓の世界の最高位であり、十万石の大名と同じステータスを与えられていたという。
当時は「子減らし」のために娘を花街へ売り、それで何とか生計を立てるということが当たり前のように行われていた。特に東北や北陸ではその傾向が強かったという。主人公の糸里は、そんな境遇にある少女の一人であった。
糸里には、同じような境遇にある芸妓の吉栄(きちえい)という友人がいた。2人は、現代のJKよろしく店先でスイーツを食べたり、橋の上で「恋バナ」に花を咲かせたりしていた。彼女らに許された唯一の楽しみと言ってもよかった。
吉栄は、新選組で芹沢直属の部下に当たる平山五郎を恋い慕っていた。平山は心優しく包容力のある男で、吉栄をいつかは「身受け(芸妓の借金を肩代わりし、自由にしてやること)」してやりたいと願っていた。しかし一介の下級武士に支払えるような額ではなかった。そのことは吉栄もよく分かっていたため、「いつかその日が」と夢を見ながら逢瀬(おうせ)を重ねることしかできないでいた。
一方、糸里はというと、同じ新選組の土方歳三に恋心を寄せるようになっていた。土方は、糸里が近視であることを瞬時に見抜き、当時としては珍しい眼鏡をプレゼントしてくれるような優しさを持っていた。次第に2人の距離が縮まり、お互いの身の上話をするようになっていった。土方は百姓の出身(近藤勇も同じ)であったため、同じ新選組にあっても芹沢たちのような武士出身の者たちに対して、愛憎入り混じる感情を抱えていたのである。
芸妓たちの恋心とは裏腹に、新選組の所業は凄惨を極め、京都の町に恐怖と暴力を振りかざす集団として悪名をとどろかせていた。そして新選組内部ですら、近藤や土方を中心とする百姓出身の急進派と、芹沢や平山を中心とする武士出身の体制派との間であつれきが生まれつつあった。
物語のトーンは暗く、そしてはかない。彼らの夢や希望を蹴散らす「幕末動乱」という濁流は、それに翻弄される若者たちの心に二面性を抱かせてしまう。
昼間は新選組に憧れる少年たちに武芸の指導をしながら、夜は暗殺に暗躍する平山。妹のような少女(糸里)のために眼鏡を手渡す優しさを持ちつつ、その裏では長州・薩摩側の人間を拷問することもいとわない非情さを示す土方。新選組の局長として人々から尊敬されるべき立場を手にしながら、自らの非を指摘されたことで激高し、太夫を斬り捨ててしまう芹沢。
新選組のメンバーとして登場する男たちは、どこか重苦しく、そして誰もが何かに縛られている。そして、そこから必死になって脱出しようともがきながら、命を落としていく。確かに映画では、人としてのぬくもりを感じさせる「恋」や「愛」は存在する。しかしそのどれもが悲しく、そしてはかない色合いを含んでいる。
「時代に翻弄された」と言えばそれまでだが、個人ではどうしても超えられない「格差」「身分」が厳然と存在している。たとえ腰に刀を差し、武芸に秀で、何人もの命をあやめたとしても、彼らはしょせん「無法者」であり、「お騒がせ集団」という評価しか得られない。そこに皆がストレスを感じ、諦めようと努めるが、どうしても諦めきれない衝動が焦燥感をあおる。
そして、そんな彼らから寵愛を受けなればならない芸妓たちもまた、「格差」「身分」によって虐げられた存在である。太夫となるために愛する者を裏切らなければならない者、女性がこの激動の世を生き抜くためには清濁併せのむ必要があると覚悟を決める者。しかしそう決断してもなお、心によぎるむなしさを認めないわけにはいかない。その間で葛藤する彼女たちの姿は、時代こそ異なれど、同じ葛藤を抱えているという意味では、現代のジェンダー問題にも重なるところがあると言えよう。
しかし、そんなやるせなさを打ち破り、物語のクライマックスで私たちにカタルシスを与えてくれるのは、物語冒頭で芹沢に斬られた音羽太夫が、息も絶え絶えになりながら糸里に伝えた一言であった。
「誰も・・・恨むのやない」
糸里がこの言葉の意味を理解するために物語が進行すると言っても過言ではない。彼女は、この言葉を真摯(しんし)に受け止め、「格差」「身分」によってがんじがらめにされていた人々の心を解放する。「まことの侍」たらんとする土方らの心に変化を起こさせ、会津藩士の心を打ち、ひいては糸里自身の生き方をも大きく変えていく。この重要な役柄である糸里を演じるのは、2015年に「ソロモンの偽証」でデビューした藤野涼子。彼女が音羽太夫の言葉をそしゃくし、それをポジティブに訴える場面は、涙なしには見られない。
奇しくも、幕末から明治にかけての激動の時代と同じ状況が、イエスの活動した紀元前後のイスラエルに見いだすことができる。殺伐とした社会の雰囲気が存在し、「格差」「身分」が横行していた時代。イエスが説いたメッセージは、人々の中に生きる力となって定着した。その言葉に従って生きる者たちが、常に歴史の中には存在していた。
音羽太夫は義を貫いたことで凶刃に倒れてしまった。刃を放ったのは、時の権力者であった芹沢である。この立ち位置は、キリストとサンヘドリン(ローマ帝国支配下におけるユダヤ社会の最高法院)のユダヤ教指導者たちとの関係に似ている。
音羽太夫の言葉を受け止めた糸里が、大勝負に挑む。同じように、キリストの言葉を受け止めた弟子たちが、その後の時代をイエスの言葉を用いて切り開こうとする。その姿は時代や民族の違いを超え、重なり合う部分が多いことに気付かされた。
どちらも先人の言葉を現状に適用することで、新たな生き方、時代を創造しているのである。
そんな見方で本作を鑑賞するなら、「真の武士」たらんとする人々の葛藤は、「真のキリスト者」であろうとする現代の私たちに重なるところが大きい。
言葉が人の心をつくり変え、時代を生み出す。そんなミラクルを体感したい人は、ぜひ本作を鑑賞することをお勧めする。
■ 映画「輪違屋糸里 京女たちの幕末」予告編
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