本作「僕はイエス様が嫌い」のあらすじや受賞歴などについては、以前こちらの記事で紹介があったので割愛させていただき、ここではキリスト教会の牧師という立場から、本作のレビューを書かせていただきたい。
まず、スペインの第66回サンセバスチャン国際映画祭で最優秀新人監督賞を史上最年少の22歳(当時)で受賞した奥山大史監督の感性に感嘆させられる。自らの幼少期に重ね合わせた設定で、時にはそこに監督の体験そのものが鮮明に描き出される一方、別のシーンでは、あくまでも突き放した視点で物語の経過を冷徹なまでに紡ぎ出す。その両極端な演出が良い意味で陰影となり、本来はかなりビターな「幼少期の体験」を見事にエンターテインメントに昇華させたといえよう。
まず何と言っても、主人公のユラにしか見えないイエス様の造形が見事である。考えてみれば、私たちキリスト者は「イエス・キリスト」と告白する仲間が全世界に3分の1ほど存在しているにもかかわらず、私たちをつなぎとめているその存在を、一度もビジュアライズして同一人物だと確かめたことはない。そもそも、そんなことはできないだろう。
言い換えるなら、各々のイメージするイエスであっていいわけであるし、それ以上に共通項を見いだす必要もないのである。だから主人公ユラにとって、お風呂の中でアヒルの乗り物に乗ってプカプカしているのがイエスであって何の問題もない。
ユラは引っ越した先で、ミッション系の小学校に通うようになり、初めてキリスト教に触れる。厳かだが退屈な礼拝を幾度も繰り返していくうちに、おそらく彼なりの「キリスト教」が構築されていったのだろう。それは他の生徒と同じく純粋で、善意に満ち、そして祈れば何でも願いをかなえてくれる、そんな魔法のような神を彼はイメージし、ビジュアライズすることに成功したと受け止めることができる。
ここに今なお現存するミッションスクールの希望を見いだすことができよう。明治期や戦前のような「ミッション」スクールではなくなったとしても、確かにキリスト教系教育機関は今なお若者たちの心に種をまき続けているのである。
しかしある事件を通して、ユラの心に変化が生じる。それは悲惨な出来事ではあるが、大なり小なり私たち信仰者もぶち当たる障壁である。ここから映画は物語を大きく変化させていく。この展開をどう受け止めるかが、この映画を好きになるか嫌いになるかの分岐点であろう。
私とは異なる見解だが、なるほどと思わされたのは映画ジャーナリストの中山治美氏による次のコメントである。
何より描こうとしているテーマは、マーティン・スコセッシ監督が「沈黙―Silence―」で挑んだテーマと同じ “神の沈黙”。巨匠が歳月と大金をかけたのに対し、新人監督が子どもを起用して軽やかに描いてしまったのだ。
確かにそういう見方ができる。おそらく奥山監督自身も、そういった不条理を体験した幼少期の一コマを映画として表現したのだろう。だが、彼と若干異なる境遇ではあるものの、幼き日よりキリスト教に触れざるを得ない環境で生まれ育った筆者のような者にとっては、ユラを通して表現した奥山監督自身が体験したあの「出来事」は、これまた異なる色合いを醸し出しているのである。
幼き日より教会に通い、教会学校で聖書を学び、そこに書いてあることが「真理」であると教え込まれてきた者にとって、ユラのような体験は日常茶飯事であった。そしていつしか「聖書の物語=真理」という枠組みをカッコ付きで捉えなければならないことに気付かされるようになるのである。そういった過程ではまさに、本作の主人公と同じ心境の変化を味わうことになる。
だが、映画はここで終わってしまうが、実際に生きている子どもたちはそれでも変わりなく教会に通い続けるし、ましてや学校であるなら、そこを卒業するまでは今までと同じ「礼拝」、同じ「聖書の時間」を過ごすことになるだろう。私はそうやって生きてきた。
すると今になって分かることがある。それは、幼少期にインパクトを強く抱いた「キリスト教信仰」は、幼き者の信仰であるが故に純粋だが、一方で世間知らずの「温室培養」でもあるということである。年齢とともに私たちの信仰も成長し、また社会や世の中にうまく順応していくことになる。
ここで私たちは「純粋な信仰」こそが素晴らしく、「世に適応する信仰」が妥協の産物として汚れていると受け止めてしまってはいけない。なぜなら、世の中の軋轢(あつれき)やプレッシャーに負けずに生きる指針を得ることこそ、信仰者がこの世でキリストを信じる醍醐味(だいごみ)だからである。
本作で描かれたのは、幼年期の終わりである。人から教えられ、言われるがままに祈りや文言を唱える時代の終幕である。ユラは、もはや大人たちの「単なる操り人形」ではない。そのことに気付かされた彼は、「幼年」から「少年」へと成長したことになる。だから陽気で無邪気なイエスは必要なくなるのである。そう考えるなら、本作でイエスに象徴されているのは、信仰の純粋さよりも、イニシエーションとして人の成長を促す存在だったということだろう。
そして、少年期には少年期なりのイエスとの出会いがあるはずである。やがて青年期、そして大人へと成長するにつれ、私たちの信仰はなくなるのではなく、成長に伴った変化を信仰自体も遂げていくのである。少なくとも、私のつかんでいる「キリスト教信仰」はそういうものだった。
だから、中山氏が語るような「神の沈黙」とは似て非なるテーマが本作には垣間見えるような気がする。その証左として、奥山監督がこうやって幼少期の思い出を映画という形に昇華させているではないか。本作のタイトルのように「僕はイエス様が嫌い」であるなら、決して作り上げることはできなかったであろうし、そもそもこのエピソードを映画化しようとは思い至らないであろう。「嫌よ嫌よも好きのうち」というが、そんな温かくほんわかとした眼差しでキリスト教と対峙する監督の姿勢を私は感じた。
もし続編があるなら、今度はどんなイエスがユラの前に姿を現すのだろうか。やがて少年期を終え、青年期に入るとき、そのイエスはどうなっていくのだろうか。
そんなことを勝手に想像したくなる本作は、5月31日からTOHOシネマズ日比谷ほかで全国順次公開される。ぜひ多くのキリスト者に観てもらいたい一作だ。特に子どもの頃から教会に通っていた方は、いろいろと「あるある」を見つけることができるはず!
■ 映画「僕はイエス様が嫌い」予告編
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